「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        釜石艦砲射撃と「BC級戦争犯罪」

2011-07-15 05:46:56 | Weblog
岩手県三陸海岸にある釜石市は、明治大津波(明治29年)昭和大津波(昭和8年)をはじめチリ大津波(昭和35年)まで過去何回も津波の被害を受けている。従って、その防災対策も進んでいて、港にはギネス・ブックにも掲載されていた世界最深の防波堤(63㍍)まであったが、3月11日の震災では、ほとんど役にたたず破壊されてしまった。それほど今回の津波被害は大きかったが、66年前の連合軍による艦砲射撃による破壊もそれに等しいほどすさまじかった。

敗色こい昭和20年7月14日と8月9日の二回、釜石市は沖合いに停泊中の連合艦隊のものすごい艦砲射撃にあい、目標とされた製鉄所だけでなく、市街まで壊滅的な被害を受け、千人近くの市民が犠牲になったが、この中には製鉄所で強制労働に従事していた連合軍の捕虜約50人もいた。

2000年の日蘭国交400年の記念事業の一環として、僕は戦争中、南方から日本に連行されオランダ軍兵士のことを調べていて、この釜石で亡くなった捕虜の大半はオランダ人であることを知った。そして、驚いたことには当時釜石捕虜収容所の所長だった稲木誠中尉が、戦後の横浜BC級裁判で、捕虜の管理が悪く死傷させた責任を問われ、巣鴨プリズンに5年も収容されていたことも知った。

稲木中尉は広島文理大(現在の広島大学)出身の学徒兵で、当時では考えられない心の優しい人だった。稲木氏の自伝「茨の冠」(ペンネーム中山喜代平、時事通信社、昭和51年)によると、戦争中のあの時代に捕虜にクリスマスを祝うことを許可したり、海水浴まで許している。捕虜たちが収容所で回し読みしていた「風と共に去りぬ」が稲木夫人の手元に残っていてオランダ側に寄贈した。

地震津波は自然災害だが、戦争は人災である。稲木氏の自伝を読んで、僕は改めて戦争の不条理さを再認識させられた。