「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         最後の最後 8月15日まであった空襲

2011-08-13 05:46:49 | Weblog
終戦記念日の8月15日前後になると、戦争中小国民だった、われわれ老夫婦の話題はどうしても”あの時代”のことが多くなる。66年前の8月13日、老妻は高等女学校(中学)の1年生だったが、長野市の実家で空襲にあっている。空襲といってもB-29爆撃機によるものではなく、鹿島灘の敵空母から飛来した小型艦上機による機銃掃射だった。老妻の実家は目標にされた飛行場から1・5㌔にあったため、爆風で家の窓は粉々に壊れてしまったが、幸い一家は無事だった。

長野、上田空襲は敗戦2日前、すでに政府は御前会議で無条件降伏のポツダム宣言受諾を決定していたが、連合軍の前線までは通達されていなかったのだろう。B-29による空襲は天皇陛下の”玉音放送”のあった最後の最後の15日まであった。秋田市土崎港への空襲は15日未明に行われ、石油施設が破壊されて25人が犠牲になっている。

亡父は几帳面で当時住んでいた東京に発令された警戒警報、空襲警報の発令解除の時間を赤字で日記帳の欄外に記入しているが、8月15日の欄には8月14日午後10時55分空襲警報発令、15日午前3時半解除、午前5時40分、空襲警報発令、同解除8時40分、同9時半発令同解除正午とある。僕は”玉音放送”を亡母と一緒に家の庭に掘った防空壕で聞いたが、直前まで空襲警報が発令中だったのだ。

空襲警報は”玉音放送”の後は発令されていないが、亡父の日記によると16日、17日、18日の3日間は警戒警報発令、解除の赤字が見られる。空襲はなかったが、軍部は国内の治安を配慮して発令したのであろうか。警戒警報のサイレンについで発令された、あの急を告げる切羽詰ったような空襲警報のサイレンの音は、いまだに僕の耳に残っている。