「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         ”菅難”(艱難)汝を玉にして欲しい

2011-08-27 08:35:58 | Weblog
昨夕6時からのテレビニュースを見ようとしたら、菅総理の民主党代表辞任の記者会見だという。どうせ自己弁護と釈明にすぎない。早速、チャンネルを野球中継に切り替えた。同じ思いは被災地でも同じであった。朝刊をみたら被災地、気仙沼の避難所で、辞任表明にまったく関心を示さないガラガラの部屋の写真が載っていた。

とにもかくにも菅総理に辞任表明で物事は一歩前進したかに見える。しかし、菅総理辞任後の民主党の代表選をめぐる”テイタラク”はなんだろうか。政策論争ではなくて、あいも変わらぬ"小沢”か"反小沢”かの構図である。小沢一郎氏は刑事被告人ではなかったのか、党でも党員資格停止になっている人ではなかったか。小沢氏も何回も"一兵卒"宣言をしていたではないか。

代表選に5人が立候補した。29日の選挙までに、それぞれの政策を明らかにするが、国民には選挙権はない。代表(総理)を選べるのは389人の民主党議員だけである。代表選に立候補した5人が、なぜかすでに"小沢参り”をしている。その肝心の小沢氏は海江田候補支持を表明し、海江田氏なら前進があるといっているそうだ。

投票権のない僕だが、個人的には海江田氏には票はいれない。理由は"小鳩体制”で失政が証明済みであるマニフェストへの回帰である。また、あの時代の迷走が繰り返されるかと思うとゾッとする。また人前で涙を流すような政治家は、菅夫人ではないが総理として的確かどうかである。

"艱難汝を玉にす”という諺がある。人間は苦労を経験して、初めて立派な人間になることができる(三省堂慣用句ことわざ辞典)という意味だ。せっかく"菅難”を体験した民主党議員諸君だ。なんだか国民には理解できない、"数の論理”で代表を選べば、どういうことになるか。真剣に"玉”になるよう代表選びをして欲しい。

       日本人誰もがが過酷だった昭和20年

2011-08-27 05:54:17 | Weblog
母方の本家から三回忌の法要のさいの献杯の音頭を乞われ故人の生前について調べた。故人は当主の母親に当たり97歳の長寿を全うした。僕にとっては従兄弟の嫁に当たるが、戦前わが家は本家の敷地内にあり、従兄弟夫婦の結婚式のさい、僕が"雄蝶雌蝶”の雄蝶役を務めた関係によるものなのだ。

母方の本家は東京の昔は郊外であった目黒川沿いの農家で、僕が子供だった昭和10年代には農業はしていなかったが、敷地は広く大きな屋敷だった。が、昭和20年3月10日の下町大空襲の直後政府の強制疎開撤去命令で取り壊されてしまった。当時81歳の僕の祖母と60歳代の伯父伯母夫婦は伯母の実家があった栃木県の葛生へ疎開した。故人は当時30歳だったが、これより先、従兄弟の仕事の関係で世田谷区の梅が丘に疎開していた。1歳の乳飲み子を含め4人の子供を抱えていたが、その従兄弟が3月27日、応召を受けたため追うようにして葛生に合流した。その後、疎開荷物のほとんどを残してきた梅が丘の家がまさかの空襲で全焼してしまった。

葛生の疎開先での生活は、高齢者には厳しかったのでろう。81歳の僕の祖母は敗戦後の8月28日逝去し、伯父も癌で病床に伏してしまった。馴れぬ疎開先で4人の子供をかかえ、病気の義父の看病でさぞかし故人は大変であっただろう。戦後の11月、伯父は自動車で帰京、入院先で翌21年の1月他界している。従兄弟は幸い、内地勤務だったので比較的早く復員できたが、その間、女手一つで切り回していたわけだ。

日本人誰もがが、昭和20年という年は過酷な年であった。亡父の日記を調べて見ると、親族、知人の葬儀出席の記載がなんと多いことか。戦地だけではなく、銃後でも高齢者、病人などの弱者は食糧不足から、ばたばた倒れていたのだ。