昨日のブログで有料老人ホームで”心穏やかな”一生を終えたSさん(93)の事を書いたが、改めてSさんの前半の半生を顧みると波乱万丈であった。Sさんは大正8年、鹿児島県生まれだが、当時の日本では、その時代を象徴するような「流浪の旅」の歌が流行していた。
♯ 「流浪の歌」(宮島郁芳作詞 後藤紫雲作曲 大正10年)
流れ流れて落ち行く先は 北はシベリア南はジャバよ
いずこの土地を墓所と定め いずこの土地の土とならん
Sさんは日支事変の始まる直前の昭和11年、地元の旧制中学を卒業すると、単身当時蘭印といわれたジャバ(現在のインドネシア)のスマランへ渡った。スマランはスラバヤ、バタビアに次ぐ港町で、Sさんは日本人経営の小さな商社に入社した。戦前、蘭印にはこういった日本の商社や商店が多く「Toko Jepang」(日本人商店)と呼ばれていた。仕事は日本からの安い雑貨や薬を輸入し現地人に売り込むことであった。
昭和16年12月8日、大東亜戦争が始まると、Sさん他の蘭印在住日本人約2000と共に一斉に逮捕され、着の身着のままのまま、オランダの貨物船に積みこまれ、南オーストラリアの砂漠地帯にあるラブダイ(Loveday)という抑留所に収容された。幸いSさんは翌17年、英国との間の抑留者交換で解放されたが、そのままジャバに連れて行かれ、20年には現地召集で自動車隊に二等兵として入隊した。
21年Sさんは復員帰国できたが、戦後の焼け野原で仕事もなく苦労された。でも前半の半生に比べれば波乱はないので割愛させてもらうが、Sさんに限らず大正1ケタ世代は、過去の日本人の中でも一番苦労が多かった世代である。
♯ 「流浪の歌」(宮島郁芳作詞 後藤紫雲作曲 大正10年)
流れ流れて落ち行く先は 北はシベリア南はジャバよ
いずこの土地を墓所と定め いずこの土地の土とならん
Sさんは日支事変の始まる直前の昭和11年、地元の旧制中学を卒業すると、単身当時蘭印といわれたジャバ(現在のインドネシア)のスマランへ渡った。スマランはスラバヤ、バタビアに次ぐ港町で、Sさんは日本人経営の小さな商社に入社した。戦前、蘭印にはこういった日本の商社や商店が多く「Toko Jepang」(日本人商店)と呼ばれていた。仕事は日本からの安い雑貨や薬を輸入し現地人に売り込むことであった。
昭和16年12月8日、大東亜戦争が始まると、Sさん他の蘭印在住日本人約2000と共に一斉に逮捕され、着の身着のままのまま、オランダの貨物船に積みこまれ、南オーストラリアの砂漠地帯にあるラブダイ(Loveday)という抑留所に収容された。幸いSさんは翌17年、英国との間の抑留者交換で解放されたが、そのままジャバに連れて行かれ、20年には現地召集で自動車隊に二等兵として入隊した。
21年Sさんは復員帰国できたが、戦後の焼け野原で仕事もなく苦労された。でも前半の半生に比べれば波乱はないので割愛させてもらうが、Sさんに限らず大正1ケタ世代は、過去の日本人の中でも一番苦労が多かった世代である。