「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           戦時中のインドネシアでの日本酒造り

2012-12-16 10:31:32 | Weblog
昨日「スッラウェシ研究会」主催の会合で、戦時中セレベス島で南部杜氏が日本酒造りをしていた話を聞いた。講師は映像企画演出家の松田健明さんで、膨大の資料から戦時中、岩手県石鳥谷町(現在花巻市)の杜氏5人がセレベス島で日本酒造りをしていたことを調べ上げた。銘柄は「南の光」(別名「うなばら」)といい、これを飲んだ人の手記もある。しかし、残念ながら70年の歳月の経過で、南部の杜氏たちがどんな身分で、だれの指示でセレベスに渡り、どこで醸造していたかなどの詳細についてはわかっていない。

昨日の会合には海軍民政府の軍属としてマカッサルで酒保(軍の食堂)関係の仕事をしていた粟竹章二さん(86)も出席して当時の貴重な体験を証言してくれたが、現地製の合成酒を飲んだことはあるが、お米から醸造した「南の光」は飲んだことはないし、杜氏がいたことも知らなかったという。粟竹さんは戦争末期の昭和19年にセレベスに渡り、当時若かったから「南の光」を飲まなかったのかもしれないが、食糧の流通部門にいた人だから不思議だ。でもいずれにしても70年も前の話だ。今となっては調べるのも難しい。

日本のインドネシアでの軍政は3年余にわたり、地上戦のなかったジャワ、スマトラは軍人間で「天国」と羨まれられていただけに、軍務の間をみて飲酒する機会も多かったようだ。10年ほど前、北スマトラのトバ湖の近くシドロ.ボロンという町に戦争中、第25軍直轄の「酒工場」の跡が残っており訪ねたことがあった。多分、マカッサルにも多分、よく調べれば「南の光」の酒蔵の跡もみつかるかもしれない。

先年、製紙関係者と一緒に戦時下日本の製紙会社がスマトラに建てた工場跡を訪ねたことがあったが、当時の煙突や礎石が残っていて感激したものだ。南部の杜氏とマカッサル、映像化するにはよいテーマである。