「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

               亡父と牧水そして沼津

2012-12-14 06:11:06 | Weblog
沼津市の若山牧水記念館から会報が届き、12月24日まで特別企画展「牧水と沼津」(千本松、富士山そして)が開かれている旨ご案内をいただいた。大正、昭和を代表する歌人、若山牧水は大正9年(1920年)から亡くなる昭和3年まで8年間、沼津に住み数々の歌を残している。実は僕の亡父も仕事で半年間だったが、沼津に住み牧水と酒を酌みかわした仲であった。

亡父は大正9年8月から翌10年2月まで東京の新聞社の通信員として沼津に居住した。その間、沼津に移り住んできた牧水と酒友だったようで、亡父の送別会の時の集合写真と共に牧水が扇子に自筆した歌「わが友を見送るけふの別れの酒いざいざ酌めな別れゆかぬと」が長らくわが家の家宝のように保存されていた。亡父は短い滞在だったが牧水と同じように沼津をこよなく愛した一人であった。残した雑文には”沼津は明るい町だった。人情も誠によく滞在半年間他郷にいるような気がしなかった”と書いている。

平成18年、僕は亡父がこれほど愛した沼津であり、恐らく牧水の歌も多分酒席での即興の歌だろうと思い、牧水研究の一助になればと牧水記念館に贈呈した。牧水記念館会報(38号)に”は、研究者の須永秀生さんが、これを紹介してくださっているが、当時牧水は赤貧だったらしく”居すくみて家内しづけし一銭の銭なくてけふ幾日経にけむ”ほどだった。

亡父が生前僕に語ったところによれば、牧水は駅弁で酒を飲むのが好きで、いつも記者クラブにきては皆と一緒に杯をかわしていたという。酒席としては、これが一番安上がりである。それでも”一銭の銭もなく幾日”の牧水にとっては負担だったに違いない。残念ながら亡父が牧水と何を語ったか残っていないのは残念だ。