作家曾野綾子さんの産経新聞連載の随筆「小さな親切、大きなお世話」は、同じ昭和6年生まれのためか共感することが多い。しかし、4月20日付けの”会話のない食卓の害悪”は、曾野さんにしては珍しく、老人施設の実態をよく理解しておらず誤解を呼ぶ。でも、老人心理の機微をついていて、全く、その通りだと僕も体験からそう思った。
曾野さんは、この随筆の中で老人施設の中には、施設内で財布を持たせなかったり、外出を許可制にしているケースを紹介しており、施設の食卓には会話がない、と書いていた。しかし、認知症の老人の世話をしている施設では、財布を預かる場合もあるだろうし、外出を許可制にするのは当然である。僕も旧友が入所している老人施設など何か所か訪れたことがあり、食事時にもぶつかったが、老人たちが黙々と会話もなく食べている姿はなかった。
曾野さんは”(これでは)多少判断の狂いがあっても自分で歩いて何とか生活できたのが、施設の中に閉じ込められ、あっという間に心身の機能が衰えてしまい車イスになる。厚労省はこの無残な現実を認識しているのであろうか”と書いている。これについては、僕も若干ケースが違うが同感である。昨年暮93歳で亡くなった旧友で同じ体験をしている。生涯独身の旧友は都内のマンションで生活していたが、独り暮らしで危険なので、地元の福祉施設に連絡した。これが結果的には彼にとって”大きなお世話”になってしまった。比較的元気で自由に外出していたのが、電車を使っての外出は付き添いが必要になり、あまり気がのらないデーサービスにも参加させられた。恐らく彼にとっては福祉のサービスは心身の負担だったのかもしれない。
先日、百歳の先輩の誕生日祝いに参加したが、家族の人たちが、あまり手を取り、足をとったりの過保護な看護はしていなかった。老人には”大きなお世話”は時により禁物である。
曾野さんは、この随筆の中で老人施設の中には、施設内で財布を持たせなかったり、外出を許可制にしているケースを紹介しており、施設の食卓には会話がない、と書いていた。しかし、認知症の老人の世話をしている施設では、財布を預かる場合もあるだろうし、外出を許可制にするのは当然である。僕も旧友が入所している老人施設など何か所か訪れたことがあり、食事時にもぶつかったが、老人たちが黙々と会話もなく食べている姿はなかった。
曾野さんは”(これでは)多少判断の狂いがあっても自分で歩いて何とか生活できたのが、施設の中に閉じ込められ、あっという間に心身の機能が衰えてしまい車イスになる。厚労省はこの無残な現実を認識しているのであろうか”と書いている。これについては、僕も若干ケースが違うが同感である。昨年暮93歳で亡くなった旧友で同じ体験をしている。生涯独身の旧友は都内のマンションで生活していたが、独り暮らしで危険なので、地元の福祉施設に連絡した。これが結果的には彼にとって”大きなお世話”になってしまった。比較的元気で自由に外出していたのが、電車を使っての外出は付き添いが必要になり、あまり気がのらないデーサービスにも参加させられた。恐らく彼にとっては福祉のサービスは心身の負担だったのかもしれない。
先日、百歳の先輩の誕生日祝いに参加したが、家族の人たちが、あまり手を取り、足をとったりの過保護な看護はしていなかった。老人には”大きなお世話”は時により禁物である。