「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

61年前、駆け出し記者だった頃の旧友の訃報

2014-04-23 06:20:06 | Weblog
もうそういう年頃になったのであろう。また旧友の訃報である。今年になって三人目の寂しい知らせだ。旧友は61年前僕が学校を出てすぐ赴任した新聞社の長野支局で僕に記者のABCを手ほどいてくれた先輩である。先輩は地元の新聞社から移ってきたが、身分が嘱託のため正規採用の僕より給与が低く、独身といえ生活は大変だった。

支局は県庁近くの下宿屋の二階の八畳間で、僕はここに寝泊まりしながら、朝夕下宿屋の食事の世話になった。当時月給は諸手当込みで1万円近く、下宿の食事代が3千円だった。独身者としては、まあまあの生活だったが、先輩は5千円だったから大変だったようだ。昼食は近所のパン屋からマーガリンを塗っただけのコッペパンを一個10円で買っていた。会社の規定で、自分で撮った写真が掲載されると一枚2百円の報酬がでた。先輩はもっぱら、これを狙って季節感を伝える写真を撮っていた。

FAXもメールも写真電送もない時代であった。僕らは自転車に乗って取材をした。長野は善光寺があって坂の多い町だ。地方検察庁や裁判所は善光寺よりさらに坂の上にあった。支局長は厳しい人で、朝取材にでたら夕方まで支局に戻ってはいけないと厳命した。夕刻、僕らが取材した原稿は、急ぎのニュースは電話で東京本社へ送り、さもない記事や写真は駅から列車に載せて送った。

戦後8年経って世の中はだいぶ落ち着いてきたが、まだ貧しい何もない時代であった。夜仕事が終わると、若い僕らは近所の酒屋から一一升ビンの安酒とクジラの大和煮の缶詰を取り寄せ酒盛りをした。給料日には、まだ市内にあった岩石の特飲街を冷やかし、当時あった「憩いの街」という飲食街で餃子をたべながら痛飲した。劇作家、別役実さんのお母さんの店も僕らのたまり場であった。善光寺の境内にはインドから贈られた白牛がいた時代である。つい、この間の事と思われるのだが。