最近”ニコタマ”の名で若い人の間で人気のある二子玉川(東京.世田谷)の町が再開発ですっかり様変わりした。昨日、老妻と集まりの会場の下見を兼ねて昼食を食べに行ったところ、駅の東側地区に高層のビルが完成、来月には本格的なホテルも進出するそうで、都心並みの景観に変容、人人で混雑していた。驚いたのは6,7階の飲食階で、どの店も順番待ちの混雑ぶり。午後1時すぎなのに店によっては長蛇の列を作っていた。ほとんどが女性客だが、これを見る限りアベノミクスの効果は確実に出てきた感じだ。
戦前二子玉川といえば、かって多摩川の砂利を都心に運んでいたという、路面電車の玉電が渋谷まで結ばれ、一方大井町から溝の口までの郊外電車が停車するだけの小さな駅で、僅かに日曜.祭日が遊園地や多摩川の河原の行楽客で賑わいをみせるだけ、名物の食べものは、河原に停めてある舟の上での鮎の塩焼きぐらいであった。
この二子玉川が本格的に開発されたのは、40年ほど前、玉電が地下鉄になり、大井町線が溝の口から神奈川県大和市の中央林間まで延長されて名前も田園都市線に変ってからだ。田園都市線の沿線には、新しい住宅地が各地に誕生、一挙に人口が増えた。戦争中、二子から近い多摩川の河川敷には、僕が通っていた中学校の農園があり、授業の合間を見てトウモロコシやカボチャを作っていた。その近くには、高さ50mの落下傘塔があり、銃後の青少年の落下傘降下の訓練の場であった。さらに、その近くには、昭和の初期来日した、初代ターザンのワイズミュラー(元五輪選手)が、泳いだ「玉川プール」が戦後すぐの時代まであったが、今は壊されてない。
当時を知る僕らにとっては、二子の様変わりは、全く驚きだ。が、今では見えなくなった富士山も、来月オープンするビルの最上階のホテルからは遠望できるそうである。一度機会があったら昔を忍ぶよすがに出かけてみたいと思っている。
戦前二子玉川といえば、かって多摩川の砂利を都心に運んでいたという、路面電車の玉電が渋谷まで結ばれ、一方大井町から溝の口までの郊外電車が停車するだけの小さな駅で、僅かに日曜.祭日が遊園地や多摩川の河原の行楽客で賑わいをみせるだけ、名物の食べものは、河原に停めてある舟の上での鮎の塩焼きぐらいであった。
この二子玉川が本格的に開発されたのは、40年ほど前、玉電が地下鉄になり、大井町線が溝の口から神奈川県大和市の中央林間まで延長されて名前も田園都市線に変ってからだ。田園都市線の沿線には、新しい住宅地が各地に誕生、一挙に人口が増えた。戦争中、二子から近い多摩川の河川敷には、僕が通っていた中学校の農園があり、授業の合間を見てトウモロコシやカボチャを作っていた。その近くには、高さ50mの落下傘塔があり、銃後の青少年の落下傘降下の訓練の場であった。さらに、その近くには、昭和の初期来日した、初代ターザンのワイズミュラー(元五輪選手)が、泳いだ「玉川プール」が戦後すぐの時代まであったが、今は壊されてない。
当時を知る僕らにとっては、二子の様変わりは、全く驚きだ。が、今では見えなくなった富士山も、来月オープンするビルの最上階のホテルからは遠望できるそうである。一度機会があったら昔を忍ぶよすがに出かけてみたいと思っている。