百歳のお年寄りに銀杯を贈るのは税金の無駄遣いだと「行政事業レヴュー」を検討していた有識者会議が厚生労働省に答申したという、最初、僕はこれをネットで読んだとき、有識者はなんと非常で、不見識な連中だろうと思った。が、よく読んでみると、そうではなく、有識者たちは、こんな問題で自分たちを呼んで、審議させるのは無駄だというものらしいが、よく真相は不明だ。
日本では超高齢化進み、1963年には僅か153人だった百歳のお年寄りが2014年には3万人を超えた。僕の先輩も今年百一歳だが、元気で南房総の息子さん夫婦と一緒に生活されている。「行政事業レヴュ―」で、銀杯問題が取り上げられたのは、おそらく百歳老人の急増で費用がかさみ、社会から批判されるのではないかという、厚労省の役人根性から出たものだろう。事実、厚労省では数年前から、銀杯の大きさを小さくしてきているとのことだ。
昨日、70年前、勤労動員で苦労した仲間たちの会があり参加したが、みな百歳まで十数年あるのに、歳相応に”くたびれ”ており、銀杯を貰えるかどうか判らない。百歳まで生きるというのは大変なことだ。予算の上で銀杯を廃止するかどうか、有識者に諮るよりも、問題は敬老の気持ちである。多分、数年先には、百歳老人は5万人、10万人になるかもしれない。銀杯の予算がなければ、長寿を讃える表彰状でもよい。
ネットの書き込みを見たら、案の定、銀杯は税金は無駄、老人は早く死ねと言ったものがあった。税金の無駄遣いならば、百歳の老人は銀杯など欲しくはないと思う。こういった考え方が、日本の社会の一部にあること自体が問題だ。
日本では超高齢化進み、1963年には僅か153人だった百歳のお年寄りが2014年には3万人を超えた。僕の先輩も今年百一歳だが、元気で南房総の息子さん夫婦と一緒に生活されている。「行政事業レヴュ―」で、銀杯問題が取り上げられたのは、おそらく百歳老人の急増で費用がかさみ、社会から批判されるのではないかという、厚労省の役人根性から出たものだろう。事実、厚労省では数年前から、銀杯の大きさを小さくしてきているとのことだ。
昨日、70年前、勤労動員で苦労した仲間たちの会があり参加したが、みな百歳まで十数年あるのに、歳相応に”くたびれ”ており、銀杯を貰えるかどうか判らない。百歳まで生きるというのは大変なことだ。予算の上で銀杯を廃止するかどうか、有識者に諮るよりも、問題は敬老の気持ちである。多分、数年先には、百歳老人は5万人、10万人になるかもしれない。銀杯の予算がなければ、長寿を讃える表彰状でもよい。
ネットの書き込みを見たら、案の定、銀杯は税金は無駄、老人は早く死ねと言ったものがあった。税金の無駄遣いならば、百歳の老人は銀杯など欲しくはないと思う。こういった考え方が、日本の社会の一部にあること自体が問題だ。