「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

本土上陸に備え「築城班」に配属されていた頃

2015-06-24 05:08:02 | Weblog
70年前の昭和20年6月23日、沖縄での組織的な戦闘が終わった。しかし、その日の事が僕の記憶にはない。亡父の日記帳にも記載されていない。4月Ⅰ日、18万人もの大部隊で沖縄本島に上陸した米軍は、激しい戦闘の末、3か月余りで全島を制圧した。その苦戦の模様は、本土の僕らにも伝わってきたが、すでに数重なる敵の空襲や艦砲射撃にあい、僕らは正直言って沖縄どころではない。次は本土上陸だとその備えに入っていた。

4月15日の京浜大空襲で動員先の軍需工場を焼失した当時中学3年生であった僕らは新しく千葉県東葛飾郡梅郷村の「利根川運河」の江戸川河口の浚渫現場に家を離れ動員された。配属先は、広島に本部があった、陸軍船舶部隊「暁2942部隊」築城班で、敵の九十九里海岸上陸後の、地上戦の際、運河を自由に航行出来るようにする「築城」作業であった。

僕らは浚渫によって出た土を川底からモッコに載せて土手の上に運ぶ仕事であった。14-5歳の少年には過酷であったが、僕らは朝早くから夕方遅くまで黙々と働いた。少しでも仕事の手を休めると,鞭を持った監督の兵隊から”沖縄の事を思え”と激しい罵声が飛んできた。時には、作業中に敵のグラマン艦載機の機銃掃射に会い、作業小屋へ逃げ込むこともあった。

約1か月、僕らは空腹を抱えながら「築城」に従事したが、少年には過酷だという学校側の判断があったのであろう。7月初め、僕らは帰京でき、新しい軍需工場や鉄道工事に配転されて終戦を迎えた。もし、戦争が続行され。敵の本土上陸があったら、僕らはどうなっていたであろうか。毎年、この時期になると当時の事が思い出される。