「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

お代官の手代(てがわり)だった祖父

2015-07-15 05:18:07 | 2012・1・1
東京は今、お盆の最中だが戦前のように”迎え火””送り火”を焚くわけでもない。わが家でもかっては盆提灯をともしたが、家を改造してからその習慣もなくなった。老妻が僅かに盆を迎えるに当たって仏壇を整理したら、引き出しの奥から、今まで気がつかなった和紙の古文書が出てきた。細かい筆字を虫眼鏡のお世話で見ると、わが家の系譜図(写し)の一部で、祖父(1831年―99年)の生前の業績が記されている。昭和6年(1931年)生まれの僕はもちろん祖父に会ったことはないし、詳しい業績など知らなかった。

わが家には数年前、このブログでも紹介したが、文久3年(1863年)祖父が横浜で撮った、腰に二本、刀をさしたちょんまげ姿の写真が残っている。40年前までは、ガラス板の原版もあったが、引っ越しで紛失してしまった。この写真と生前の父親の話から、祖父が川家直藩の”さむらい”だったことは知っていたが、、何をしていたのか、何故横浜で写真を撮ったのか不明だった。写真の祖父が手にした扇子には「文久三年 三十二歳」と記してある。高杉晋作が奇兵隊を結成し、薩英戦争のあった幕末の混乱期の写真である。

見つかった古文書を見ると、文久3年、祖父は川直藩の代官だった小笠原甫三郎の手代を仰せつかり、勤務地の神奈川奉行代官手代から甲斐(山梨県)に赴任している。祖父は神奈川奉行地の前には上野国(群馬県)岩鼻でも代官手代をしている。代官手代とは「コトバンク」によれば、徳川幕府の郡代、代官の属僚で、”てがわり”と呼ぶそうだ。祖父は、ご一新(明治維新)の後は新政府の民政裁判所の書記などして、引退後は当時は上野の山里であった日暮里で悠々自適の隠居生活を送った。自分史もそうだが自分の家の歴史についても、ある年代になると関心が出てくるものだ。