”柳青める日、燕(つばめ)が銀座に飛ぶ日”で始まる「夢淡き東京」(サトー八ロー作曲 小関祐二作曲 昭和22年)は、戦後間もない時代に青春時代を送った焼跡派世代には格別な想いがある。僕の記憶ではまだ東京は中心部でも、あちこちに空襲の焼跡が残り、食糧難、娯楽も映画ぐらいしかなかった時代だが、ラジオの”のど自慢”番組から、この歌が流れてくると、なにかほのぼのと明るい気持ちになったものだ。
戦前、銀座はといえば柳並木が有名で「銀座の柳」(西条八十作詩 中山晋平作曲 昭和7年)という歌があるほどだ。子供だった僕の記憶にもあり、親に連れられて”銀ブラ”を楽しんだものだ。銀座一帯は昭和20年1月27日の白昼飛来したB-29の大群の空襲にあい、ほとんど焼失したが、柳並木は戦後でも季節が来れば芽が青ばみ、燕も飛来していたのだ。
その燕が最近すっかり銀座では見られなくなったようだ。先日テレビを見ていたら毎年、銀座の燕を観察している街の学者の話で、今年銀座で巣作りしているのは僅か2か所にすぎないという。そしてカメラが、その巣作りの模様を写していたが、デパートの蛍光灯の裏側とかタクシー会社のガレージの天井で何か痛ましい。
ここ数年、僕は銀座へ出かけたことがない。歳をを取り購買欲がなくなり、グルメにもあまり関心がなくなってきたせいかもしれない。燕の銀座への飛来がすくなくなった話を聞いて、燕も同じように老いてきたのかと苦笑した。しかし、最近、銀座には中国から”爆買い”の大群が押し寄せてきているそうだ。銀座も変わったものだが、郷愁がない銀座には老人は行きたくない。
戦前、銀座はといえば柳並木が有名で「銀座の柳」(西条八十作詩 中山晋平作曲 昭和7年)という歌があるほどだ。子供だった僕の記憶にもあり、親に連れられて”銀ブラ”を楽しんだものだ。銀座一帯は昭和20年1月27日の白昼飛来したB-29の大群の空襲にあい、ほとんど焼失したが、柳並木は戦後でも季節が来れば芽が青ばみ、燕も飛来していたのだ。
その燕が最近すっかり銀座では見られなくなったようだ。先日テレビを見ていたら毎年、銀座の燕を観察している街の学者の話で、今年銀座で巣作りしているのは僅か2か所にすぎないという。そしてカメラが、その巣作りの模様を写していたが、デパートの蛍光灯の裏側とかタクシー会社のガレージの天井で何か痛ましい。
ここ数年、僕は銀座へ出かけたことがない。歳をを取り購買欲がなくなり、グルメにもあまり関心がなくなってきたせいかもしれない。燕の銀座への飛来がすくなくなった話を聞いて、燕も同じように老いてきたのかと苦笑した。しかし、最近、銀座には中国から”爆買い”の大群が押し寄せてきているそうだ。銀座も変わったものだが、郷愁がない銀座には老人は行きたくない。