フィリピンの新大統領にロドリゴ.ドゥテルテ.ダバオ市長が当選した結果、これまで、あまり日本の新聞に登場してこなかった「ダバオ」の活字を見かけることが多くなった。常駐特派員を置いていない産經新聞のコラムにもダバオの記事があり、その中で、僕はダバオ市内に戦争中に旧日本軍が掘った全長7キロのトンネルがあることを知った。
僕は10年ほど前、西スマトラ(インドネシア)のブキティンギにある旧第25軍司令部が掘った防空壕跡を調べてことがある。当時、日本では学者たちの誤った報道で、この防空壕で労務者3千人が虐殺されたという虚報が流れていた。僕は何回も現地を訪れ、掘削当時の責任者を初め証言を取り、虚報であることを突き止めた。
ダバオの日本のトンネルはなんの目的で掘られたのだろうか。マニラで発行されている「まにら新聞」の”栄える商魂 消える戦場”という記事によると、このトンネルは”ダ.ジャパニーズ.トンネル1942”と呼ばれ、戦後の2001年、現地の製薬会社がトンネルの一部に観光目的でレストランやホテルを造ったことにより、しられるようになった。トンネルの入口には銃をもった等身大の旧日本軍の兵隊や展示室には兵器や軍票なども展示されているという。
”ダ.ジャパニーズ.トンネル1942”という表記から見て、トンネルは1942年(昭和17年)に掘られている。ダバオが本格的な米軍の空襲にあったのは44年、ミンダナオ島に連合軍が逆上陸してきたのは45年5月である。敗戦の8月15日までの3か月間にダバオ地区だけで2万人が犠牲になっており,そのうちの多数は、戦前からダバオでマニラ麻の製造に当たっていた民間人であった。
日本のトンネルの入口には”ダバオの歴史の不思議を知り日本を探検しよう”という看板があるそうだが、探検しようにも日本側の資料や説明がなければ、スマトラの穴のように誤解の原因になる。僕らは有志の協力をえて、現地にインドネシア語と英語で”日本の穴”築造記を作り、これを現地の了解をえて配布してきた。戦後70年、防空壕と郭ふく陣地の違いが判らない世代が多くなってきている。従軍世代が健在のうちに戦地のこういった「遺産」をきちんと整理すべきである。
僕は10年ほど前、西スマトラ(インドネシア)のブキティンギにある旧第25軍司令部が掘った防空壕跡を調べてことがある。当時、日本では学者たちの誤った報道で、この防空壕で労務者3千人が虐殺されたという虚報が流れていた。僕は何回も現地を訪れ、掘削当時の責任者を初め証言を取り、虚報であることを突き止めた。
ダバオの日本のトンネルはなんの目的で掘られたのだろうか。マニラで発行されている「まにら新聞」の”栄える商魂 消える戦場”という記事によると、このトンネルは”ダ.ジャパニーズ.トンネル1942”と呼ばれ、戦後の2001年、現地の製薬会社がトンネルの一部に観光目的でレストランやホテルを造ったことにより、しられるようになった。トンネルの入口には銃をもった等身大の旧日本軍の兵隊や展示室には兵器や軍票なども展示されているという。
”ダ.ジャパニーズ.トンネル1942”という表記から見て、トンネルは1942年(昭和17年)に掘られている。ダバオが本格的な米軍の空襲にあったのは44年、ミンダナオ島に連合軍が逆上陸してきたのは45年5月である。敗戦の8月15日までの3か月間にダバオ地区だけで2万人が犠牲になっており,そのうちの多数は、戦前からダバオでマニラ麻の製造に当たっていた民間人であった。
日本のトンネルの入口には”ダバオの歴史の不思議を知り日本を探検しよう”という看板があるそうだが、探検しようにも日本側の資料や説明がなければ、スマトラの穴のように誤解の原因になる。僕らは有志の協力をえて、現地にインドネシア語と英語で”日本の穴”築造記を作り、これを現地の了解をえて配布してきた。戦後70年、防空壕と郭ふく陣地の違いが判らない世代が多くなってきている。従軍世代が健在のうちに戦地のこういった「遺産」をきちんと整理すべきである。