ちょうど70年前の昭和21年(1946年)5月19日、皇居前広場は「飯米獲得人民大会」(通称「米寄こせメーデー」が開かれ25万人の大群衆で埋まった。参加した日本共産党の”細胞”の一人のプラカードには「朕(ちん)は、たらふく食っている。汝(なんじ)臣民、餓えて死ね 御名御璽(ぎょめいぎょじ)」と、天皇の勅語を模した言葉まであった。当時旧制中学4年生だった僕はデモには行ってないが、鮮明にこの日の事を覚えている。
5月といえばコメの端境期である。そこへ持ってきて、前年が異常気象による飢饉、また、敗戦で海外から数十万人が一挙に復員、帰国してきたため、食料事情は極度に悪化した。主食の米は底をつき、遅配が続き、ついには欠配にまでなった。わが家でも同じで、母親が、タンスの中から自分の着物を持ち出し、農家を駆けずり回って”ヤミ米”と交換、やっと飢えを忍んだ。”口に入るもの”は何でも鍋にぶち込んだ薄い雑炊であった。ついにコメがなくなり、フスマを食べたこともあった。
あれから70年、いまは飽食の時代である。先日富山で開かれた先進7カ国の環境相会議では「食品ロス」が議題になった。”食べられる状態にあるにも関わらず、廃棄される食品”の事を「食品ロス」というのだそうだ。ネット情報で、わが国では、この「食品ロス」が年間500万トンから700万あると知り驚いた。日本人一人当たりおにぎり2個を捨てる量だとのことだ。70年前新橋駅前のヤミ市では、進駐軍キャンプから出た残飯の雑炊が名物だったという。孫がアルバイト先のスーパーからもらってきた50パーセント引きのサンドウィッチを食べながら、今の時代に感謝した。
5月といえばコメの端境期である。そこへ持ってきて、前年が異常気象による飢饉、また、敗戦で海外から数十万人が一挙に復員、帰国してきたため、食料事情は極度に悪化した。主食の米は底をつき、遅配が続き、ついには欠配にまでなった。わが家でも同じで、母親が、タンスの中から自分の着物を持ち出し、農家を駆けずり回って”ヤミ米”と交換、やっと飢えを忍んだ。”口に入るもの”は何でも鍋にぶち込んだ薄い雑炊であった。ついにコメがなくなり、フスマを食べたこともあった。
あれから70年、いまは飽食の時代である。先日富山で開かれた先進7カ国の環境相会議では「食品ロス」が議題になった。”食べられる状態にあるにも関わらず、廃棄される食品”の事を「食品ロス」というのだそうだ。ネット情報で、わが国では、この「食品ロス」が年間500万トンから700万あると知り驚いた。日本人一人当たりおにぎり2個を捨てる量だとのことだ。70年前新橋駅前のヤミ市では、進駐軍キャンプから出た残飯の雑炊が名物だったという。孫がアルバイト先のスーパーからもらってきた50パーセント引きのサンドウィッチを食べながら、今の時代に感謝した。