「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

日本料理店が一軒もなかった半世紀前のジャカルタ

2016-11-21 06:47:26 | 2012・1・1
昨日、半世紀前、インドネシアの首都ジャカルタに在住していた昔の仲間の会に出た。昭和41年から42年にかけて、インドネシアでは前年の40年9月30日に起きたクーデター未遂事件直後で、スカルノ(初代大統領)からスハルト(2代大統領)への政権移行期、国全体が混乱の極にあった時代に苦楽を共にした仲間たちである。

当時、ジャカルタは夜間外出禁止令が出ており、ほとんどの日本人は治安の悪化から単身赴任でホテル生活をしていた。スカイロケットと呼ばれたものすごいインフレで、国民は塗炭の苦しみの中にあった。毎日のように学生のデモがあり、僕ら日本人は華僑と間違えられないように、外出時の車にはフロントに日の丸をはったりした。そんな中で、不注意から僕は白昼、中心街で軍服を着た強盗に拳銃を突き付けられ、財布と時計を強奪されたりした。

世界的な日本食ブームで、ネット情報によれば、今、ジャカルタには日本食料理店が千軒以上あるそうだが、半世紀前には一軒もなかった。インスタンントラーメンさえなかった。僕ら単身赴任者は日本食恋さに、中心街のメンテンにあったイタリアレストランに日本食まがいのものを求めたり、外港のタンジュンプリオクまで出かけ中華料理店でイカの刺身を特注したりした。

僕ら日本人は、華僑を通じて”闇ドル”を購入していたからスカイロケットのインフレの中で、かえってその恩恵に浴していたが、一般庶民は大変で、僕らが下町の中華食堂で昼食をとると、食べ終わった途端、子供たちが残飯を求めて集まってきた。敗戦直後の新橋の闇市で進駐軍”払いさげ”の残飯の雑炊が売っていたそうだが、それ以上に子供たちの”乞食”は痛ましかった。僕らは昭和21年にできたという新橋の老舗中華料理店で、当時の話を肴に話し合ったが、半世紀の年の流れを感じた集まりだった。