二階のベランドの窓を開けたら、みぞれが何時か雪に変っていた。雪国では11月の積雪は珍しくはないが、東京では僕の記憶にない。調べてみたら当たり前だ。気象台の記録による前回の東京の初雪は昭和37年11月、54年ぶりだという。僕はこの時期、新聞社の中東移動特派員として、湾岸諸国を歴訪中だった。多分、アデンからイエメンのタイズへ向けて砂漠の上を走っていた。
俳人中村草田男の句”降る雪や明治は遠くなりにけり”は明治34年生まれの草田男が昭和6年、母校の麻布の小学校を訪れたとき詠ったもので、時の経過は27年にすぎない。54年という年月はその倍である。霜月(11月)の降雪を見て一句”霜月の雪昭和も遠くなりにけり”。
昭和37年11月といえば、世界はいわゆるキューバ危機で米国とソ連(当時)との間で核戦争が起きるのではないかと揺れていた時だが、日本では2年後の東京五輪を控えて景気が上向き、巷では橋幸夫と吉永小百合の歌ったデュオ”いつでも夢よ”や中尾ミエの”可愛いベビー”がヒットしていた。東京新宿の超高層ビル群はまだなく、高速道路も一部しか開通していなかった。しかし、54年前には今のような年金問題も老人医療介護の問題もなかった。貧しかったが、国民が将来へ向かって皆夢を抱いていた時代のように思う。
僕の記憶にある初めての東京の降雪は昭和11年2月26日の2、26事件前の大雪だが、これは80年も前の事だ、昭和ははるか遠くの事になりつつある。
(目黒の自宅ベランダの手すりはうっすり,濡れているだけ。24日正午)
俳人中村草田男の句”降る雪や明治は遠くなりにけり”は明治34年生まれの草田男が昭和6年、母校の麻布の小学校を訪れたとき詠ったもので、時の経過は27年にすぎない。54年という年月はその倍である。霜月(11月)の降雪を見て一句”霜月の雪昭和も遠くなりにけり”。
昭和37年11月といえば、世界はいわゆるキューバ危機で米国とソ連(当時)との間で核戦争が起きるのではないかと揺れていた時だが、日本では2年後の東京五輪を控えて景気が上向き、巷では橋幸夫と吉永小百合の歌ったデュオ”いつでも夢よ”や中尾ミエの”可愛いベビー”がヒットしていた。東京新宿の超高層ビル群はまだなく、高速道路も一部しか開通していなかった。しかし、54年前には今のような年金問題も老人医療介護の問題もなかった。貧しかったが、国民が将来へ向かって皆夢を抱いていた時代のように思う。
僕の記憶にある初めての東京の降雪は昭和11年2月26日の2、26事件前の大雪だが、これは80年も前の事だ、昭和ははるか遠くの事になりつつある。
(目黒の自宅ベランダの手すりはうっすり,濡れているだけ。24日正午)