「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「母の日」に明治生まれの母を想う

2017-05-15 05:27:09 | 2012・1・1
5月第二日曜日の「母の日」の昨日、娘夫妻と孫から老妻にお祝いに、鮮やか色をしたきれい紫陽花(あじさい)の鉢植えが届いた。(写真)。一昔前まで「母の日」の贈り物といえば、母が存命な方は赤色のカーネーションを、すでに亡くなられた方は、白色のカーネーションを胸に飾り、母親に感謝するのが習わしであった。多分「母の日」の本家本元の米国では同じ習慣が守られていると、思うが、わが国では最近は、あまりカーネーションにこだわらなくなってきた。

僕の母は明治26年(1893年)6月に生まれ。昭和51年(1976年)6月なくなっているが、生前、僕は「母の日」のお祝いをした記憶がない。ものの本によれば、日本での「母の日」は、昭和24年ごろ、占領下の時代、米国の影響を受けてキリスト教関係者の間から始まったとされている。しかし、今のように国民の間で年中行事の一つとして定着したのは、昭和の終り頃ではなかっただろうか。

先年、母親の37年回忌を終え、自分自身も母親のなくなった歳を越え、申し訳ないが普段はあまり母親を思い起こすことが少なくなってきたが、先日調べ事で戦後の食糧難時代の亡父の日記を読み直し、改めてあの時代の母親の苦労を知り、”足を向けて寝てはいけない”と思った。71年前の昭和21年5月、東京の皇居前広場で”コメ寄こせ”メーデイのあった前後だが、わが家でも備蓄していた最後の食糧がなくなり、母親がやっと汽車の切符を手にいれ、先祖の地である埼玉県深谷まで買い出しに出かけている。亡父の表現を借りれば、まさにわが家にとってSOSであった。配給の小麦粉も底をつき、乾燥芋を粉にして、フスマまで食していた。

数えてみたら当時母親は53歳で、ちょうど今の娘たちと同じ年齢である。70年前、大都会の東京が飢餓状態に陥り、食を求めて満員の列車に乗って母親たちがかけずりまわったことなど信じられない。「母の日}にあたって亡母を想い出し感謝する次第である。