”銃後の小国民”と呼ばれた僕ら世代にとっては7月7日には特別な思いがある。80年前の昭和12年7月7日、北京郊外盧溝橋の日本軍駐屯地へ中国軍が夜襲をかけてきた。戦闘はすぐに治まったが、この事件がきっかけとなって、戦火が中國大陸各地に拡がり、戦争中、僕らは”支那事変”(日支事変)は、盧溝橋事件から始まったと教えられた。後刻、16年12月12日、パールハーバー攻撃直後の東條内閣は閣議で”(今次戦争は)支那事変を含み「大東亜戦争」と呼ぶ旨決定している。これにならえば、「大東亜戦争」は盧溝橋事件に端を発したことになる。
支那事変の”事変”は広辞苑(岩波書店)によれば”国際間の宣戦布告なき戦争”とある。僕は当時小学1年生だったが、全く戦争が始まったという記憶がない。前年の2.16事件は、かすかに記憶があるし、南京陥落の旗行列は鮮明に記憶しているのだが。当時亡父は新聞社に勤務しており、日記に戦況について簡単に記述しているが、盧溝橋事件のあった7月8日の日記には簡単に”北京郊外盧溝橋で日支兵間に衝突あり”と書いてあるだけで、戦火が中国大陸各地に拡大し、4年後には太平洋、インド洋にまで広がるとは予想もしていなかった。
盧溝橋事件のすぐ後、級友の床屋をしていた父親が”歓呼の声”に送られて出征していった。銃後では国家総動員令が敷かれ、戦争体制になってききたが、”銃後の小国民”の多くは、最後には”神風”が吹いて日本が勝利すると信じていた。しかし、盧溝橋での一発が、世界中を戦火に巻き込んでしまった。あれから80年、戦争の愚かさをを直接体験した世代が少なくなってきた。それだけに今改めて盧溝橋事件について考えてみた。
支那事変の”事変”は広辞苑(岩波書店)によれば”国際間の宣戦布告なき戦争”とある。僕は当時小学1年生だったが、全く戦争が始まったという記憶がない。前年の2.16事件は、かすかに記憶があるし、南京陥落の旗行列は鮮明に記憶しているのだが。当時亡父は新聞社に勤務しており、日記に戦況について簡単に記述しているが、盧溝橋事件のあった7月8日の日記には簡単に”北京郊外盧溝橋で日支兵間に衝突あり”と書いてあるだけで、戦火が中国大陸各地に拡大し、4年後には太平洋、インド洋にまで広がるとは予想もしていなかった。
盧溝橋事件のすぐ後、級友の床屋をしていた父親が”歓呼の声”に送られて出征していった。銃後では国家総動員令が敷かれ、戦争体制になってききたが、”銃後の小国民”の多くは、最後には”神風”が吹いて日本が勝利すると信じていた。しかし、盧溝橋での一発が、世界中を戦火に巻き込んでしまった。あれから80年、戦争の愚かさをを直接体験した世代が少なくなってきた。それだけに今改めて盧溝橋事件について考えてみた。