7月のこの時季になると、全国各地は高校野球地区予選が花盛り。遠く離れていても母校の試合結果が気になるものだ。数年前までは80歳半ばを過ぎても旧友誘い合って応援に駆けつけたが、今年はこの酷暑、熱中症にかかってはという気遣いから中止していたが、同学の従弟から試合会場からケータイで2対2の熱戦だと連絡があった。そのあと、旧友二人からも”残念!6対2で惜敗でした”とメールで知らせが入った。
僕は71年前の昭和21年夏の戦後復活第一回の全国中等野球大会東京予選一回戦の東京高師付属中学との試合をまだ覚えている、高師付属中は東京大会で優勝、全国大会でも全国制覇した浪華商業に準々決勝で敗れている強豪だったが、わが母校、攻玉社は高師付属中に7回コールド負けながら、相手からも6点も取った。試合会場は文京区大塚の高師の運動場で、観覧席もなくグランドは芝生などなく砂利まじりであった。母校は20年5月の空襲で焼失、ユニフォームなどなく、選手の中には地下足袋、キャッチャーも剣道のお面をかぶっていた。
昭和21年の亡父の日記の7月補遺。「苛烈だった食糧危機もアメリカの厚意による小麦粉と缶詰でどうやら切り抜けえた。実際、この月、われわれが口にした三度三度の食事はことごとく、アメリカの御救い米であった。もし、アメリカから何もくれなかったら、私たちは餓死を免れなかったあもしれない」子供だったので、僕には当時そんな危機感はなかったが、大変な時代だったのだ。そんな中での野球の試合、応援ー青春時代の1ページであり忘れられない。
僕は71年前の昭和21年夏の戦後復活第一回の全国中等野球大会東京予選一回戦の東京高師付属中学との試合をまだ覚えている、高師付属中は東京大会で優勝、全国大会でも全国制覇した浪華商業に準々決勝で敗れている強豪だったが、わが母校、攻玉社は高師付属中に7回コールド負けながら、相手からも6点も取った。試合会場は文京区大塚の高師の運動場で、観覧席もなくグランドは芝生などなく砂利まじりであった。母校は20年5月の空襲で焼失、ユニフォームなどなく、選手の中には地下足袋、キャッチャーも剣道のお面をかぶっていた。
昭和21年の亡父の日記の7月補遺。「苛烈だった食糧危機もアメリカの厚意による小麦粉と缶詰でどうやら切り抜けえた。実際、この月、われわれが口にした三度三度の食事はことごとく、アメリカの御救い米であった。もし、アメリカから何もくれなかったら、私たちは餓死を免れなかったあもしれない」子供だったので、僕には当時そんな危機感はなかったが、大変な時代だったのだ。そんな中での野球の試合、応援ー青春時代の1ページであり忘れられない。