「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

僕の従兄も「徴用工」だったあの時代 誰もがが痩せ細っていた

2017-08-14 05:52:48 | 2012・1・1
戦時中強制されたとする「徴用工」の像がソウルと仁川に設置され、その開幕式があった。おりしも韓国では、「徴用工」として「軍艦島」(長崎県)へ強制的に連行された坑夫たちが過酷な労働に耐えかねて島から逃亡をはかる作り話の映画が話題になっているという。言葉は悪いが、韓国は「慰安婦」に味をしめて、今度は「徴用工」でわが国から”カネをせしめる”つもりなのだろうか。

敗戦時、中学3年だった僕らの世代にとって「徴用工」は日常、聞きなれた言葉であった。国民総動員下、昭和18年の国民徴用令改正によって戦争遂行上不要な仕事についている男子12歳から60歳未満、女子40歳未満の本土の日本人はすべて「徴用工」として徴用された。明治30年代生まれ、当時40歳代の僕の従兄も、呉服屋の店を閉じ、家族から離れて横浜の造船所へ徴用された。

朝鮮半島の日本人は当初、この徴用令の適用外だったが、戦争の激化により19年7月適用されるようになった。当時、僕が学徒動員されていた多摩川べりの軍需工場にも朝鮮から来た徴用工が大勢働いていた。彼らは木造2階建の寮に住み、僕らと同じように朝8時半から仕事を始め、同じように昼食を食べていた。

仁川の徴用工像を新聞の写真を見て、徴用工が過酷な労働を強いられ、食べ物も与えられなかったかのように”骨皮”の様相に造られていた。しかし、あの時代は肥った国民はいなかった。亡父は戦前18貫(約70キロ)あった体重が12貫まで落ちていた。半島からきた徴用工だけが虐待されたわけではない。

神奈川県大和市の旧高座海軍工廠にも、戦争中同じように台湾から少年工8400人が動員され働いていたが、戦後彼らは当時の日本の暖かい対応に感謝して「台湾亭」という記念の建物を作り、公園として大和市に寄贈している。少年工の中には米軍の機銃掃射で命を失った者もいた。同じ日本の統治下にあった台湾と朝鮮とはなぜこのように違うのだろうか。