マレー半島とスマトラ島(インドネシア)とを挟むマラッカ海峡で、横須賀を母港とする米国の第七艦隊のイージス駆逐艦が石油タンカーと衝突、死者、行方不明者10数名を出した。海運関係者以外、あまり日本人には、なじみが薄いが、僕は半世紀前の1967年と20年前の1997年の2回、航海したことがある。
最初の時は新聞社のジャカルタ特派員時代で、スマトラ縦断旅行のさい、西スマトラのパダン港から、ジャカルタの外港タンジュンプリオクまで、当時インドネシア政府にチャーターされていた、かっての大陸からの引揚船「興安丸」に乗っての2泊3日の旅だった。2回目はそれから30年後、北スマトラのメダンの学校でボランティアで日本語を教えていたとき、対岸のペナンまで往復フェリ-で観光旅行した時である。
「マラッカ」には、僕は特別な郷愁がある。1995年、僕は小浜に日本に初めて象が渡来した史実を調べにマラッカへ出かけた。結局、「日本国王」に贈呈された、この象はパレンバンの華僑からの進呈品と判ったが、数日、マラッカに滞在、ポルトガル時代の城塞跡からマラッカ海峡の夕陽を眺めて想いに耽ったことがある。戦後、スマトラ島から戦犯指名を逃れて小舟でマラッカ海峡を渡り、帰国をはかった元日本兵を知っている。作家、大仏次郎が「帰郷」という作品の中で、マラッカの町を描いている。色々と想いがあり。再訪したいが、もう身体が許さない。
最初の時は新聞社のジャカルタ特派員時代で、スマトラ縦断旅行のさい、西スマトラのパダン港から、ジャカルタの外港タンジュンプリオクまで、当時インドネシア政府にチャーターされていた、かっての大陸からの引揚船「興安丸」に乗っての2泊3日の旅だった。2回目はそれから30年後、北スマトラのメダンの学校でボランティアで日本語を教えていたとき、対岸のペナンまで往復フェリ-で観光旅行した時である。
「マラッカ」には、僕は特別な郷愁がある。1995年、僕は小浜に日本に初めて象が渡来した史実を調べにマラッカへ出かけた。結局、「日本国王」に贈呈された、この象はパレンバンの華僑からの進呈品と判ったが、数日、マラッカに滞在、ポルトガル時代の城塞跡からマラッカ海峡の夕陽を眺めて想いに耽ったことがある。戦後、スマトラ島から戦犯指名を逃れて小舟でマラッカ海峡を渡り、帰国をはかった元日本兵を知っている。作家、大仏次郎が「帰郷」という作品の中で、マラッカの町を描いている。色々と想いがあり。再訪したいが、もう身体が許さない。