「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

広島 長崎に原爆が投下された頃の東京

2018-08-07 06:54:31 | 2012・1・1
広島、長崎に原爆が投下された頃、僕は両親と3人で東京に住んでいた。中学3年で、多摩川べりの軍需工場へ学徒動員されて機銃弾を作っていた。父は定年後の仕事だが、都心の大東亜省関係の団体で嘱託勤務していた。その父の広島原爆投下の6日(月)の日記「いよいよ本格的な夏(連日の空襲警報で)寝不足ながら6時に起床。朝食。出勤間際に空襲警報発令(午前7時48分)同解除(10時15分)そのまま在宅、午後出勤、8,9月分の俸給支給される。4時終了、近くの「源来軒」(国民酒場)へ行くが籤で外れ、6時半帰宅、配給の焼酎に蘇生の思い」

9日(木)の長崎投下の日の日記「亡父の命日、仏前に礼拝す。10時半出勤そこそこに帝国ホテルに外務省岡崎勝男調査局長(戦後外相)の講演会へ行く。席上、日ソ開戦、容易ならぬ事態発生の発表に、憂鬱の気に閉ざされる。4時半帰宅。行水。夕食」(長崎への原爆投下は6日午前11時02分、岡崎氏の講演直前だった)

亡父は仕事の関係で11日の日記には,「今日も引き続き不快な情報を聞く」と敗戦情報を聞いているが、父の日記には広島、長崎の”新型爆弾”への言及はない。広島原爆投下が初めて国民に知らされたのは7日午後の大本営発表で、一般国民は8日付の朝刊だが、新型爆弾で被害が甚大というだけで詳細は明らかにされていない。僕が新型爆弾の惨状を知ったのは敗戦後ではなかっただろうか。父は敗戦を事前に知り、僕も父から聞いていたが口外はできなかった。そんな日々なのに、父は11日の日曜日には逗子の友人宅を訪ね海水浴をして“爽快を覚ユ”などと記している。