「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

"武士道にもとった”「比国決戦の歌」

2019-11-07 05:58:39 | 2012・1・1
小ブログ(2018年3月3日更新)「海ゆかばは軍歌についてコメンテーターの「ミツバチ28号」さんから最近、貴重なご意見と情報を頂いた。その中で、僕が戦争末期歌われた「比国決戦の歌」(作詞西城八十 作曲古関裕而)に触れたところ、当時「愛国の花」などの作詞者、福田正夫が”武士道にもとる”と抗議していたことを知った。
# 「比国決戦の歌」(昭和19年3月)
 決戦かがやく亜細亜(アジア)の光 命惜しまぬ若桜
 今こそ咲き競うフィリッピン いざ来い二ミッツ゚、マッカサー
 出てくりゃ地獄へ逆落とし 

昭和19年10月サイパン陥落後戦局は悪化し、この歌が歌われた頃、僕は中学2年生で、3学期からは学業を離れ軍需工場へ動員されていた。今でも覚えているのは、駅から工場へ行く途中、行進しながら、よくこの歌の最期の繰り返し(リフレイン)の部分”出てくりゃ地獄へ逆さ落とし”を大声上げてガメったことだ。空腹を抱えてやけっぱちでもあった気もする。

軍歌の定義は難しいが、日支事変と呼ばれていた戦争初期には愛国行進曲、愛国の花など愛国を国民に訴えるものが多かったが、敗戦近くになると「比国決戦の歌」など勇ましさを通り越したものが増えてきた。それでも、一方では連日の空襲の中、「勝利の日」(サトーハチロ―作詩 古賀政男作曲)を信じていた。
♯ 「勝利の日まで」(昭和19年3月)
丘にはためくあの日の丸を 仰ぎみる見る見る我等が瞳
いつか溢れる感謝の涙 燃えてくるくる心の炎
我等がみんな力の限り 勝利の日まで勝利の日まで
僕は最後の最後まで戦争は神風が吹いて勝利すると固く信じていた。75年前の銃後の日本である。