竹馬の友、K君と通学した戦時中の中学生制服と英和辞典(三省堂 昭和19年版)絵は筆者描く
文字通り竹馬の友だったK君が10月8日、90歳の誕生日をすぐ前にして亡くなっていた。”葬儀、納骨の儀は近親者のみで滞りなく相すませました。ご通知が遅れたことをお詫び申し上げます。誠に勝手ながら御香典ご御供花は辞退させて頂きます”という息子さんからの葉書である。彼には伴侶がお元気だが、宗教上の関係で、いわゆる「喪中」とか「喪主」といった仏教の考えは許されないらしい。喪中葉書ではない。
K君とは昭和18年(1943年)4月、同じ中学に入学してからの仲だ。戦闘帽にゲートルを巻いた制服で、毎朝、”〇〇君”と玄関先で声をかけられ一緒に通学した。20年1月からは同じ軍需工場へ学徒動員され「人間魚雷」回天の部品を作った。終戦間際には家を離れ、千葉県の利根運河の浚渫工事に同じ農家に分宿して従事した。戦後は同じアルバイト先で汗を流した仲でもあった。
現役を引退してからは戦中戦後苦労した仲間が年に数回旅をしたが、彼は明るい性格からムードメーカーで酒が好きで歌も好きだった。酔いがまわると彼は十八番の歌、美空ひばりの「愛燦燦」を歌った。けっして上手ではなかったが、情が込められていた。賑やか好きの彼でもあった。お通夜があれば僕は”人生つて不思議なものですね、嬉しいものですね”と「愛燦燦}を歌いたかったのだが。数すくなくなった仲間たちで,できれば彼を偲ぶ会を開き、彼の持ち歌の一つでもあった”お馬鹿さんよね”で始まる歌を歌い早逝(僕らより)の挽歌にしたい。