「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「ばんえい競馬」か「赤字財政」か

2006-12-11 06:31:52 | Weblog
負債500億円をかかえて”破産”した夕張市のHPを見て、改めて驚
いた。同市が来年1月末までに売却あるいは業務委託希望の市内
の29施設のリストが載っている。よくも採算も考えずにこんなにくだ
らない施設を造ったものだ。石炭の町だから解らないないでもないが
博物館はじめ石炭関係の施設だけで四つもある。そのほかSL舘、マ
ンモス舘、化石舘などなど。

夕張は氷山の一角で道内にはまだまだ財政危機の市町村があると
いう。ここ数年冷え切っている道内経済から見てそうかも知れない。
そこへきて60年の歴史をもつ「ばんえい競馬」が31億円の赤字で
すでに開催四市のうち旭川、北見、岩見沢が開催を断念、残る帯広
も撤退を検討中という。

「ばんえい競馬」は北海道独特のもので1000㌔に近い大型の農耕
馬が重量を背負って200mの坂道を昇り降りする競馬。20年前ほど
前、岩見沢で一回だけ観戦、いくらか儲けた記憶があるが、北海道在
勤10年のうち「ばんえい」をみたのは、この一回だけだ。

帯広が開催をやめれば北海道から、あるいは日本から「ばんえい」は
姿を消す。「ソフトバンク」社が支援の手を差し出しているという報道も
あるが決定したわけではないらしい。帯広市も財政はそれほど豊かでは
ないらしい。他力本願の道民体質からみて果たして巨額の赤字をかかえ
て大丈夫なのかー。身近に夕張の例もある。

”濡れ落ち葉” ”粗大ゴミ”世代からの提言

2006-12-10 07:01:46 | Weblog
元気なチヤー・ガールならぬ”チヤー・おばあちゃん”のテレビ番組をな
んとなく見ていたら”濡れ落ち葉”という言葉が出てきた。定年退職後家
でゴロゴロしている亭主のこと。妻の外出時いつも同行したい,とまとわ
りつくことからきているのだという。1989年の流行語というから、かなり
前からあった言葉だが知らなかった。

同じ意味の言葉で”粗大ゴミ”がある。”ゴミ”より”落ち葉”のほうが多少
役にたつし言葉の響きも良い。しかし年寄りの男に対する"蔑視語”には
変わりがない。定年後の男性はそんなに世間にとって厄介ものなのだろ
うかー

先日の新聞によると、米連邦議会で超党派機関「イラク研究グループ」(ISG)
が米軍撤退を含む79項目をブッシュ大統領に提案した。その内容はさておい
て僕が注目したいのはベーカー元国務長官はじめ10人の委員の平均年齢が
74歳だということだ。日本では考えられない。事情はすこし異なるが、小泉
内閣のとき比例選挙区から長老政治家を締め出し物議になったことがあった。


肉体年齢と精神年齢とは違うとよくいう。年寄りには年寄りの知恵がある。わ
が国にも明治初頭「元老院」という制度があった。二院制の上院(Senatur)は
ラテン語のSenex(老人)に由来している。時と場所、問題によっては、日本に
「元老院」機能を持つ諮問機関があってもよいのではないだろうかー。”濡れ落
葉”世代の”濡れ落葉”とは思っていない老人からの提言。

ニートを社会の”振り出し”点に。

2006-12-09 07:43:22 | Weblog
同期入社の会がきのう麹町のホテルであった。僕らが入社した昭和28年は
新旧大學が同時卒業した年で大変な就職難であった。未来へバラ色の夢を
描き会社の門をくぐった青年も風雪53年を経て白髪禿頭の老人となり杖の世
話になる者も出てきた。

昔の正月の遊びに「出世双六」があった。遊びの参加者は”振り出し”からサイ
コロを振り、出た目の数だけ前へ進み”上がり”(つまり殿様とか社長といった
最高位)まで誰が一番先に到達するかを競うゲームだが、途中”休み”や”逆
戻り”があったりで、出た目の大きさだけでは早く”上がり”にゴールインできな
い。まさに人生そのもので、そこに面白味があった。

安倍内閣は人生再チャレンジを重要政策の一つに掲げている。国民の一人ひ
とりがその能力や持味を発揮でき努力が報われる公正な社会の確立、そのた
めリストラその他で失意、挫折した者に再チャンスを与え、この推進に参画する
企業に奨励金を与えようというもののようである。

この制度にニートやフリーターも加えよ、という意見もある。しかし、この若者
たちは双六でいえば”振り出し”点にさえ立たない連中である。チャレンジでは
ない。数十万人もいるというこの若者たちをどうするのかー。このところ政索が
画餅になりがちな安倍内閣だが、美しい日本をつくるため、この連中も社会に
参画させる政策も考えてほしい。



大東亞戦争勃発の朝 コタバル上陸作戦

2006-12-08 07:45:19 | Weblog
大東亜戦争が始まった昭和16年12月8日朝のことを覚えている。当時国
民学校(小学校)5年だった僕は早朝ラジオの臨時ニュースで対英米宣戦布
告の大詔が煥発されたのを知った。続いてハワイ空襲、グアム、ダバオ、シン
ガポール、香港空襲、マレー上陸などなど。僕は登校前、隣の空地でたき火に
あたりながら大人たちが”大変なことになった”と緊張して語りあっているのを
聞いていた。

大東亜戦争(12月12日政府命名)はハワイ真珠湾攻撃で始まった印象だ
が、時間的経過でゆくと8日午前2時15分、マレー半島東海岸コタバル上
陸作戦で火蓋が切られている。当時の第18軍の記録は「8日0215上陸
に成功す。敵の抵抗は激しく熾烈な銃声をきく」とある。この敵前上陸で320
人の尊い命を失っている。昭和19年文部省国定国語教科書(巻6)は、この
敵前上陸を「コタバル上陸作戦」の題目で小国民に教えた。

今年は大東亜戦争開始65年に当たるが、真珠湾攻撃は日本人の強烈な記
憶にあり、伝えられている。しかし「コタバル上陸作戦}についてどれだけの日
本人が知っているだろうカー。教科書の「コタバル上陸作戦」の記述は戦後進
駐軍の命令で墨によって塗りつぶされ、敵前上陸からシンガポールまでの空
前絶後の日本軍の快進撃(文部省国定国語教科書(巻8)「マライを進む」)と
ともに歴史の表舞台から消え去ろうとしている。

「喪中葉書」と「忌中葉書」

2006-12-07 06:42:26 | Weblog
加齢とともに毎年「喪中葉書」「忌中葉書」が増えてくるのは仕方がない。頂戴
して困るのは通りいっぺんの通知で、どなたが亡くなったのか明記してないも
のだ。親しい人の場合は問い合わせてもよいが、普通はそのままにしてしまう
が、ちょっとどなたが亡くなったのか触れてくれたほうが親切だと思うのだが。

年に数枚は友人知人の遺族からの葉書もある。その中には亡くなった直後に知
らせを受けたら葬儀に出席出来たのにと残念に思う。しかし遺族にとっては葬
儀はいろいろ煩わしいので”近親者のみ”で済ませてしまったのだろう。その気
持ちもわからないでもないのだが。

仏教関係者のネットによると、「喪中」は自発的に故人を偲び自分の行動を慎む
意で、明治の大政令では父母13か月、妻6か月が謹慎期間だが自発的なもの。
一方「忌中}は死の穢れを49日間、外の人との接触を絶つ期間で、強制的な意
味を持つ。

しかし、一般には「喪中」「忌中」の本当の意味を知って使用している人は少ない
のではないのだろうか。残念ながら仏教自体が日本人の日常生活から遊離して
しまっている。昔のように喪に服する人はほとんどいない。ある意味では「喪中」
「忌中」は形骸化しているが、年末の挨拶状だけには生きている。

近年、年賀状をメールで送る人もあるが、「喪中」「忌中」の挨拶だけはメールで
済ませるのだけは、やめてもらいたいものだ。


アラブの奇跡 UAEの国づくり

2006-12-06 06:36:08 | Weblog
昨夜、東京の帝国ホテルでアラブ首長国連邦(UAE)の35回目の建国記
念祝賀会がり出席した。1962年12月、僕は独立前、この国が休戦海岸
(Trucial coast)と変な名前で呼ばれていた頃、主都ドバイに一週間滞在し
た。休戦海岸とは、その昔このあたりを棲み家にする海賊がペルシャ湾を
航行する英国船を頻繁に襲うので、英国が休戦協定を結んだ。これに由来
している。

44年前、僕が訪れた時ドバイには空港はなく未開の地だった。ホテルは
隣のシャルジャにあった飛行場を利用する航空会社のクルーが宿泊する小
さなものがあっただけだった。住民は昔ながらロバで飲用水を運びスーク
(市場)で野菜や魚を売っていた。クリークでは男が尻を出して自然排泄し
ていたほどだ。

ところが祝賀会で貰ったパンフを見ると驚きである。今や世界一の高層ホテ
ルが建ち、四つの滑走路を持つハブ空港を建設中、競馬ファンなら先刻ご
承知のG1レースが開催され、フリーポートでは世界の高級品があふれ若い
女性観光客、あこがれの地だという。

UAEはいわゆるオイルマネーで飛躍的に伸びた国である。しかし、ドバイには
は油は出ない。これがかえって良かったのかもしれない。名君といわれる前の
首長の積極的な国づくりで奇跡を起こした。

酒好きの僕にとってイスラム国のパーテイは苦手である。アルコール類がご
法度だからである。その点,UAEのパーテイはそんなことはない。昔は厳しく
酒の持込を取締っていたのだが。やはり世界的に飛躍するには”融通性”が
必要なのかもしれない。宗教は自身の信仰であり、戒律はその信仰のために
あるのだから。

家庭電飾 クリスマス流行考

2006-12-05 07:26:22 | Weblog
家の周囲のクリスマスの電飾が早くも夜空に映えてきた。きのう十三夜の
下、本通から家まで歩いて帰ると、僅か200mの道の両側で8軒の家が
イルミネーションで飾っていた。面白かったのは肝心のキリスト教会には
飾りがなく、その周囲の家々も電飾はなかった。教会に遠慮したのであろ
うかー。

一般の家庭でクリスマスの電飾を楽しむようになったのは、そんなに古い
ことではない。石油危機のころは繁華街のネオンさえ禁止されていたのだ
から。日本のクリスマスの行事には流行がある。戦後まもない、僕らが安
サラリーマンだった頃は、クリスマス・イブにピエロみたいな帽子を被り酔っ
払って家路にいそぐ姿をよく目にした。家庭への罪ほぼろしか、みな手には
クリスマス・ケーキを手にしていた。

戦前は東京でもあまりクリスマスは一般化していなかった。キリスト教信者
かよほど裕福な家以外は関心がなかったのではないだろうかー。ただ、なぜ
かイブの夜に寝床に靴下を置く、あの行事は子供心に覚えがある。我が家に
は煙突がないのにサンタはどこから入ってくるのだろうかと疑問に思った。
クリスマスより師走に入ると、子供にもなんとなく忙しく感じた。町にジングル
ベルのメロディが流れだしたの戦後のこと。戦前は歳末大売出しのチンドン屋
のジンタと福引の大当たりの声が12月の風物詩だった。

昭和一桁世代にはクリスマスというと、ビングクロスビーの歌ったホワイトクリス
マスと、何故か映画「少年の町」のフラナガン神父を想い出す。

隔世のドーハ・アジア大会

2006-12-04 07:13:36 | Weblog
第15回アジア大会がアラビア半島のカタールの首都ドーはで開催されて
いる。44年前(昭和37年)の今ごろ僕は新聞の新年企画でこの国を訪れ
た。まだ独立前、ドーハは未開の砂漠の地、女性の黒いニルカ(頭からか
ぶるスカーフ)だけが目立つ異様な町だった。まさかここでアジアの45か
国の国と地域の代表が集まりスポーツの大典が催されるとは想像だにで
きなかった。

時の流れを感じる。昭和33年、第3回大会が東京で開かれた時、僕はイ
ンドとパキスタンのホッケーの熱戦を神宮競技場でみた。このときの参加
国は僅か20カ国に過ぎなかった。その後第8回(昭和53年)バンコク大会
まで日本の金メダル獲得数はいつも1位、スポーツ関係者の中にはアジア
大会を二流大会として軽視する向きさえあった。

ところが、今回のドーハ大会の日本の目標は、前回の釜山大会で失った金
メダル獲得数2位の座を韓国から奪回することだという。かってアジア大会
でいつも金メダルを独占していた時代を知っている世代にとっては、なんとも
なさけない気がする。

しかし、第1回大会が昭和26年、ニューデリーで開催された時の参加国は僅か
11か国だった。アジア大会の前身ともいえる戦前の極東大会では日本、中国、
フィリッピンの3か国だった。アジアは大きくなった。いつまでも昔の考えでいて
はいけない。大きくなったアジアでの日本の活躍を期待したい。


国際結婚に想う

2006-12-03 06:32:30 | Weblog
きのう東京の世田谷で「日本・インドネシア家族の会」(PIIJ)の催しが
あった。PIIJは主として日本男性と結婚したインドネシア人女性がお互い
に家族の絆を強めようと結成された会。これまでに4回”スアラ・バンサ”
(民族の声)とう踊りや歌の催しを通じて日イの文化交流親善に努めてい
る。きのうの催しはすばらしかった。とくにジャワを舞台にしたフィナーレ
のオペラ風劇は玄人はだしだった。

日本男性とインドネシア女性との国際結婚は歴史があり、戦争期までさか
のぼる。戦争中、戦地にいた軍属や民間人の中には現地の女性と結婚、焦
土の祖国に復員した人が百数十人いた。戦後の混乱の中で、苦楽をともに
された人が多い。

ジャカルタの日本料理店の老舗「菊川」の菊池さん、東京目黒の「セデル
ハナ」の故田中さんもその一人である。今と違って国際結婚に対する偏見
の中でお子さんを教育されたが、田中さんの娘さんは日本の大学の医学部
を卒業されて現在医師として活躍されている。

日本人男性の結婚難から中国やフィリピン女性との結婚が増えている。そ
れを商売にしている業者もある。数は少ないがインドネシア女性を斡旋す
る業者も現れたときく。しかし、国際結婚は互いの文化、宗教,慣習の違い
があり難しい。PIIJの会員はインドネシア各地で勤務し、そこで知り合い
結婚した人が多いからインドネシアの事情を熟知、その上での結婚である。
安易な業者の斡旋による結婚は危険である。老爺心ながら。

バリ島への提言(2) ジゴロの追放

2006-12-02 06:56:25 | Weblog
バリ島の農業は二毛作である。年に二回お米が獲れる。今回の
旅行中も収穫中の田と田植えの光景が交互に見られた。見られ
ない風景は農道脇にホームレスなみのブルーテントが散見された
ことだ。聞いてみると、ソヨと呼ばれる他島からの季節的な援農
農民の宿舎だった。

ソヨがバリ島に来たのは10年ぐらい前からだという。その時期は
農村の若者の都会への流失時期とほぼ一致している。農村では
繁農期に人手不足となりソヨが必要となった。一方都会へ流れた
若者は一攫千金を夢見てジゴロになったのだーとバリの日本人は
説明してくれた。

バリの日本人関係者の間でジゴロの話が出てきて久しい。平成
10年、僕はサヌールの日本人女性が持つペンションに友人数人と
一泊した。女性の家にはインドネシア人青年がいた。僕は使用人
だと思っていたが、あとで知人に聞いたららジゴロだった。彼女は
日本で離婚で得たカネでこのペンションを建てたらしい。

デンパサール総領事館の話では、バリの邦人数は約1600人だと
いうが、実際はジゴロと同棲している女性などを含めると2000人
ぐらいいるらしい。総領事館にはジゴロをめぐる離婚などのもめご
との相談がかなり持ち込まれるとの話もきいた。

バリ島は世界有数の観光地で、それだけの観光資源にも恵まれて
いる。心ない一部の日本人観光客とそれを食い物にするジゴロのた
めに、本来はこの平和な心豊かな人たちのバリ島が壊されてゆく
のは残念である。