「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        「朝日新聞」 11万人無責任な数字

2007-10-12 05:24:35 | Weblog
マレー・シンガポール作戦に従軍した88歳の先輩から電話があった。医者から
肝臓ガンを宣告され、余命幾ばくもない。蔵書を処分したいから、来てくれという
内容。アセアン問題の民間篤学研究者で、自宅の店の地下の書庫には数千冊
の関係書物がある。長命の従軍経験者も80歳を越え、今、ある種の焦燥感を抱
いている。それは自分たちの戦争体験が、一部の学者や研究者によって捻じ曲
げられ、マスコミによって独り歩きしていることだ。

きのう、僕は先輩を見舞ったあと、30年来の友人が主宰している「主権回復を目
指す会」(shukenkaifuku@car.ocn.ne.jp)の「朝日新聞」への抗議集会に参加した。
先月沖縄の宜野湾で開かれた県民の”集団自決”大会参加数を「朝日新聞」が11
万人と大きく報道したことに対する抗議である。宜野湾市の人口は87,000人、沖縄
県全体でも1,300,000人である。この問題に対する私説は小ブログ(6月21,22日)
(10月3日)すでに書いたから重複を避ける。

「朝日」は数字報道について無責任である。例えば東チモールで戦争中住民4万
人が日本軍の犠牲になったという学者の記事(1999年8月11日)を掲載した。この
数字は同紙の投書欄「論壇}で紹介されたもの(1985年4月17日)だが、戦友会の
抗議で、投書者は誤りを認め謝罪している。しかし「朝日」が謝罪しなかったため
独り歩きをしている。

宜野湾集会には政治的なアジテーターがいる。その一人の大學教授が”従軍慰
安婦”について解決済みの問題を脚色して「朝日」に売り込み、「朝日」はこれを
記事にしている。この男は1980年代に戦争中のマレーの通常軍事作戦を華僑の
”虐殺”に仕立てて、マスコミに売り込んでいる。このときも「朝日」はこの虚妄を
報道した。新聞は天下の公器である。無責任な報道は止めて欲しい。

            双十節の横浜中華街

2007-10-11 05:10:44 | Weblog
台湾で16年ぶりに軍事パレードが復活した双十節の昨日、久しぶりに横浜の
中華街を訪れてみた。双十節というのは中国の辛亥革命(1911年)のあと出
来た中華民国の誕生を祝う建国記念日である。今年で96回目。横浜の中華街
でも華僑総会が主催で祝賀行事が行われた

一般の日本人には双十節も現在の中国の建国記念日である国慶節(10月1日)
もごっちゃである。中華街に来る観光客のほとんどは、会場(中華学院)正面の
「青天白日」旗を見て、台湾のお祭りだと知る。事実、催しには中国伝統の蛇踊り
(ドラゴンダンス)に混じって、台湾原住民の踊りも披露されていた。

項羽を祀る関帝廟近くの中山路の小さなレストランで630円の定食を食べた。昼
食事なのにに、店内はガラガラ。中国から来たという女の店員は手持ちぶたそう
だった。彼女のつたない日本語の説明では、例の中国食品が問題が起きて以来、
閑古鳥が鳴いているのだという。この日は双十節なので、街には多少人も出てい
たようだが、街頭で天津栗を売る強引な商法だけがめだった。

「双十節も貴女たちも祝うの?」という僕の意地悪な質問にレストランの女子店員
は笑いながら「”国”が違います」と屈託なく答えた。彼女たちレベルでは”二つの
中国”はない。陳水扁・台湾総統の双十節の演説ではないが、台湾という"国”は
事実上世界には存在する。レストランのある一角は中山路という。孫文(中山)に
由来している。今の中国について中山先生は地下で如何にお考えかー。





          焼跡整理の社会奉仕

2007-10-10 05:57:47 | Weblog
秋の長雨である。10月の東京はこんなに雨が多かったのだろうかー。古い
日記を調べると、戦争に負けた年も雨が多かった。中学3年生だった僕らは
第一京浜国道脇の焼跡整理に従事していた。雨に濡れながら、焼けトタン
などを拾い出し、道端に積み上げる作業だった。

敗戦からまだ2か月、東京の街はいたるところ瓦礫の山だった。作業現場の
旧品川区役所周辺は、国道沿いは焼野原、遠くまで一望できた。これを整理
するのにも若い男性は、まだ戦場から戻らず、結局、僕ら中学生がやらねば
ならなかったのだ。敗戦で学窓に戻れたのも束の間、僕らは再び、社会奉仕
へ狩り出された。

冷たい秋雨の中、きびしい作業だった。国道をジープで行く進駐軍が同情し
て”ラッキー・ストライク”の煙草を投げてくれた。子供心にも敗戦の惨めさを
身体で味あったものだ。しかし、戦争中から戦後のこのような体験は、その
後の自分の人間形成に役立ったような気がする。

明治憲法下では「納税、兵役、教育」が国民の三大義務であった。僕ら子供
もこれを徹底的に教えこまれた。戦後、この義務感は薄れ、逆に変な権利の
主張だけが強くなった。安倍前内閣の教育再生会議で、青少年を一定期間、
社会奉仕させたらどうかという案があった。僕は自分の体験から、これに賛
成である。自然災害時の復興事業などには積極的に活用したらどうだろうか。



        合唱の優勝と町の調和

2007-10-09 05:00:25 | Weblog
隣町の大岡山小学校(東京)が今年もNHKの全国音楽コンクール小学校の
部で金賞を獲得した。5年連続5回目の優勝である。大変な快挙だ。おめでと
う。大岡山小学校は1学年3クラス、全校生徒600人ほどの東京では平均規
模の学校である。学区のほとんどが住宅地だが、商店街もある。校門の前
には環状7号の国道も走っていて静かな環境ではない。

20年ほど前、僕はこの学校の近くに5年住んだ。正直いって環7が近く、学校
のチャイムの音、休み時間には子供達のはしゃぎ声も聞こえてきてうるさか
った。だけど、なんとなくこの街に魅かれるものがあって、今でも月に1回、自
転車に乗って床屋へやってくる。

大岡山は関東大震災で蔵前にあった東京高等工学校(現・東京工業大学)が
この地に移転してから街つくりが始まった。丘陵部には住宅地が造成され、皇 
太子妃、雅子さんの実家もかっては、この学区内であった。空襲で町の一部が
焼け、学校も講堂に焼夷弾が落ちて焼失したが、ほとんどが助かった。そのお
陰で、街はすでに80年の歴史で熟成しいる。商店街もわが駅前に比べれば、
安いし、何より嬉しいのは店主との”対話”があることだ。

孫の通う学校は大岡山小よりさらに伝統校だが、人気がない。理由は一部の
母親から”商店の子供が多い”と信じがたい理由によるものだという。街は
調和があってこそ発展するものだ。大岡山小の子供達のきれいなハーモニー
を聞いてつくづくそう思った。

      元気だった東京五輪の頃

2007-10-08 04:54:01 | Weblog
また三連休である。毎日が"日曜日"の老人にとっては、三連休といっても
格別嬉しくはない。むしろブログの材料探しに困るぐらいだ。きょう三連休
最後の日は「体育の日」だ。10月8日が何故「体育の日」なのかー。高校生
の孫も、その母親も東京五輪の時には、まだこの世にいなかった。そこで
多言だが説明。そもそも「体育の日」は昭和39年10月10日、東京五輪が開
催されたのを記念して制定されたのだが、例の"ハッピーマンデー”制度に
よって今年は第2日曜日の10月8日なのだ。

10月10日は”晴れの特異日”といわれ、気象庁の統計では、この日は秋雨
前線が去って東京地方はいつも晴れになる確率が高い。そこで五輪の開催
日に決まったわけだが、昭和39年10月10日(土)も前日は豪雨だったのが、
朝には見事に晴れ上がった。

そのころ僕は新聞社に勤務していた。自称"英語つかい”だから当然五輪要
員だと思っていたら”留守部隊”に配属になった。がっかりする反面、楽がで
きると喜んだ。ところがである。期間中に世界を揺るがすビッグニュースが二
つも飛び込んできた。一つはフルシチョフ・ソ連(当時)首相の辞任、他の一
つは中国の初の核実験であった。五輪ニュースは脇にされ、一面トップの制
作にてんてこ舞いさせられた。

あの頃は日本も自分も若かった。坂本九の「明日があるさ」や「幸せなら手を
たたこう」、岸洋子の「夜明けの歌」が流行していた。貧乏だったが、元気だ
った。仕事でも麻雀でも徹夜しても平気だったのだが。

    相撲部屋の”かわいがり方”

2007-10-07 06:07:43 | Weblog
高砂部屋の公式サイト(10月5日)をみたら、こんなことが書いてあった。
「”かわいがり方”とはルール違反、団体生活の中でやってはいけない、
盗みなど、一般的には犯罪として逮捕されてしまうが、同じ釜の飯を食
った仲間ということで身体に覚えさせ更正させる」
”身体に覚えさせる”とは、どういうことなのか。とりようによっては激し
いぶつかり稽古やビール瓶で頭を殴ったりして"覚えさせる”ともとれる。
高砂大五郎親方は(財)日本相撲協会の理事で、広報部長兼指導普及
部長である。

どうみても横綱朝青龍問題から今回の時津風親方の解雇問題にいたる
まで、相撲協会の対応はおかしい。しかも、その派生として起きたNHK
OB、杉山正邦氏の取材パス没収問題、フジテレビに対する取材パス申
請却下など、相撲は国技とはいえ興行で成り立っている。そのPRを担う
マスコミへの挑戦は得策ではない。高砂親方は広報部長である。

稽古と体罰とは違う。高砂部屋のHPをみると、これをごっちゃにしてい
るようだ。同じ釜の飯を食った中でも、悪いことをした弟子に体罰を加え
ては犯罪である。相撲もスポーツだから稽古は必要である。今回の時津
風事件を知り、戦前の炭鉱の"タコ部屋”を想起した。前借金で炭鉱夫を
集め、激しい労働に耐えかねて、炭鉱夫が逃げ出すと半殺しにしていた。
マスコミの報道によれば、時津風部屋はまさに”タコ部屋”だ。

高砂部屋のHPには、部屋の”かわいがり方”については書いてあったが
部屋の看板、朝青龍の消息については何も書いていない。ファンの知り
たいのは横綱が元気かどうかだと思うのだが。



      現代版 ”ビー玉" "おはじき”遊び 

2007-10-06 05:09:59 | Weblog
きのう、町内会主催の”骨粗しょう症”予防の会があって出席した。会場は
ほぼ満員で、お年寄りたちの関心の深さがうかがわれた。"寝たきり老人”
の原因の第三位は、この病気からとのこと。講師のお医者さんから一通り
骨密度(YAM)や食事について説明があり、そのあと骨折予防の体操実習
があった。一番、面白かったのは、足の指を使って”ビー玉”や"おはじき”
を摘み上げる体操。単純だが意外に難しく老人にはきつかった。

それこそ何十年ぶりの”ビー玉”"おはじき"遊びだった。子供の頃の昔がよ
みがえった。昭和10年代の東京(区部)は本通りを除けば横丁の道は、まだ
舗装されていなかった。僕ら男の子は一日”ビー玉”や”メンコ””ベーゴマ” 
遊び、女の子は"おはじき"や”なわとび”"ゴムとび”などに興じた。横丁には
車など入ってこない時代だ。 

東京の町から子供達の元気な遊び声が聞こえなくなってから久しい。昔から
の”隠れん坊”や"鬼ごっこ”は、今はどうなっているのだろうかー。子供が外
で遊ばなくなった結果、子供の体力が落ちていると聞く。数十年先、この子供
たちが、老人になった時、”骨粗しょう症”は?余計な心配だが。

年寄が足の指で”ビー玉”や”おはじき”をつかむ図は、あまり格好のよいもの
ではない。しかし、転倒して”寝たきり老人”になれば、本人はもちろん周囲に
迷惑をかけることになる。ところで、東京では”駄菓子屋さん”がなくなってし
まった。どこで"ビー玉”や”おはじき”が買えるのだろうかー。















 

        ”アマゾネス”(大女)の怒り

2007-10-05 05:50:53 | Weblog
私鉄の駅のエレベーターの中での出来事。乗り合わせた老妻と同年齢のおばあ
ちゃん二人が同乗の若い女性に声をかけた。”いいわね,お背がたかくて”。その
とたん、170㎝はゆうにある、その女性がいきなり”余計なお世話だ。背が高くて困
っているんだ”-男みたいな言葉使いだ。三人のおばあちゃんは、あっけにとられ
ふるえあがった。

1970年代の初めごろだが「アマゾネス」という映画があった。「007」のT・ヤング
監督のアクッション史劇だった。ギリシャ神話に出てくる”アマゾネス”という女性
部族を題材にしたもので、出演女優がみな大柄な肉体派女優だったことで話題に
なった。当時”アマゾネス”は流行語にもなった。

はっきりと基準はないが、日本では170㎝以上が”アマゾネス”らしい。その割合は
1,000人に2人ぐらいとのことだ。半世紀以上の昔、伊東絹子さんがミス・ユニバー
スに選ばれ”八頭身”が話題になった。以来、僕は背の高いのは、美人の条件か
と思っていたが、エレベーターの女性をみると必ずしもそうではないのだ。

帰宅して老妻が経験を話をすると、娘曰く”あかの他人には、たとえ誉め言葉でも
身体のことはいけませんよ”老妻は自分が言ったのではないのに諭された。たし
かにその通りだ。二人のおばちゃんは多分、東京生れか東京育ちだろう。僕もそ
うだが、おせっかいで、余計なことを言い過ぎる。でも、大和撫子もこわくなったも
のだ。これも余計な一言かもしれないが。

            京都のコロッケ

2007-10-04 04:54:12 | Weblog
”今日もコロッケ、明日もコロッケ”-大正時代に流行した歌だそうだが、
そのコロッケが京都の名物だという。テレビのグルメ番組かなにかで得た
知識だが、インターネットで検索すると、本当にそうだった。あるわあるわ
京市内の美味しいコロッケ店の紹介やそのマップまであった。

僕は京都のコロッケについて想い出がある。65年前のこと、参宮旅行(修
学旅行)の帰途、京都駅前の旅館で食べたコロッケの味が今でも忘れられ
ない。当時の友人達と会うといつもその味の話になる。

昭和17年10月2日ー6日、東京の国民学校(小学校)6年生だった僕らは、
緒戦の勝利の”ご褒美”として、伊勢、奈良、京都、4泊6日(2日車中泊)の
参宮旅行をプレゼントされた。旅館で食事が出たのだから、まだ食糧事情は
それほど悪くなっていなかったのだが、京都のコロッケ以外、他の所でなにを
たべたのか、まったく記憶にない。

その頃からコロッケが京都の名物だったかどうかは知らない。まだ京都市内
には市電が通っていた。僕らはそれに乗って御所と平安神宮へでかけた記
憶があるが、コロッケの味が美味しすぎて、他の事は忘れてしまった。

後年、昭和の終わりから平成の初め頃にかけて、十数回京都へ行く機会が
あったが、一度もコロッケを食べる機会がなかった。どうしても京都へ行けば
やはり伝統の京料理が食べたくなる。コロッケ・マップには鴨川を揚げたての
コロッケをたべながら散策するのもいいものだ、と書いてある。一度、コロッケ
のノスタルジア旅行をしてみたいが、昔の味はただ追憶の中にとどめていた
ほうがよいのかも知れない。


      集団自決のあの時代と歴史認識

2007-10-03 05:52:30 | Weblog
沖縄で悲惨な集団自決があったころ、僕は本土決戦を控えて江戸川運河で
上陸用舟艇を通すための掘削工事に従事していた。中学三年生。来る日も
来る日も空腹のなか、モッコを担ぎ、監督の兵隊から"沖縄を思え”とハッパ
をかけられていた。沖縄戦で犠牲になった”ひめゆり部隊”や”健児隊”と同
世代である。

先月末、沖縄の宜野湾市で日本軍が集団自決を強制したとの記述を削除し
た政府の検定意見を撤回せよと大規模な抗議集会があった。集団で採択
された決議には「日本軍の関与は明白」とあった。戦争だから当然だ。が
軍の命令系統による強制はありえない。戦争がもう少し長引けば、僕も敵に
向かって突撃するか、自害したと思う。”生きて虜囚になるよりも”という戦陣
訓が僕ら子供にも徹底していた。むしろ自害用に手りゅう弾を渡されたら、こ
れで楽に死ねる、と喜んだかもしれない。狂気の時代である。

一連のこの騒ぎで気がかりなのは、沖縄県人ではなくて外部の勢力が集団
自決を政治利用しようとしていることだ。例えば1982年の朝日新聞の「侵略」
誤報事件のころ、マレーの通常の作戦行為を、華僑虐殺事件にしたてて、教
科書会社に、日本兵による赤ん坊宙ぎり事件を売り込んだ男が、今回の事件
にも関与している。この男は例の天皇有罪を宣告した「国際女性法廷」のメン
バーでもある。

宜野湾市の集会を伝えた現地の新聞に自民党の山崎拓・元副総裁が地元議
員激励会の席上、強制集団自決記述の削除について自派閥の渡海紀三朗・
文科相に検定の見直しを省令に基づき勧告する旨の記事が載っていた。沖縄
の仲井眞知事は急遽、上京し渡海文科相と話し合うそうだ。

渡海文科相は「政治が教科書検定に介入してはいけない」といっているが、こ
の運動そのものが特定の変な政治勢力の介入によって扇動されている事実を
直視すべきである。根は深く、家永教科書問題にまでさかのぼるのをご存知な
のかー。「従軍慰安婦」問題の”河野談話”の二の舞にならないよう切に願う。