「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

    鳩山”全共闘内閣”の検察への挑戦の暴挙

2010-01-18 06:09:50 | Weblog
小沢一郎民主党幹事長が検察への全面対決を表明、これを受けて鳩山由起夫総理が
全面的にこれを支持して一緒に戦おうと宣言した。これは言ってみれば行政のトップで
ある総理のまっ向からの検察への宣戦布告みたいなものだ。前代未聞の暴言である。

小沢幹事長が検察への全面対決を党大会で宣言した後、その感想を求められた女性議
員の一人が”検察をトップとする官僚体制の打破だ”と勇ましく記者団に語っていた。僕は
これを聞いて、40年も前も昔全共闘の若者たちが大學紛争でゲバ棒を振るい警官隊と衝突
していたあの当時のことを想い出した。はからずも鳩山内閣17人の重要閣僚は、総理,副
総理、国家戦略行政刷新相、官房長官、法務大臣ら6人がこの世代だ。

鳩山総理のしゃべりは、全共闘世代独特の話し方で内容が空虚でアジ調だ。”歯を食いし
ばって””一丸となって””しっかりと、”勝って兜の緒をしめろ”などなど。総理が検察と戦え
と幹事長に命令するとは軽率ではすまない。まさか共闘世代仲間の法務大臣に最後は指
揮権を発動せよということではあるまい。

親から貰った巨額なおカネ、明らかに生前贈与の脱税であった。天皇陛下に対する内規を
無視した政治利用ー法律ではないが、一つのきまりである。どうも全共闘世代は、順法の精
神にかけているようだ。政治資金助成金は、われわれ国民の税金から出ている。小沢さんは
ご承知なのだろうか。

         災害は忘れた頃にやってくる!

2010-01-17 07:19:27 | Weblog
阪神・淡路大地震から早くも15年である。あの地震が発生した時、僕はたまたま
マレーシアのクアラルンプールに滞在していた。朝起きてホテルのテレビをつける
と地震で崩れ落ちた高速道路の映像があり、ショックを受けた。つい昨日のように
思い出されるのだがー。

首都圏の人間にとっては関東大震災(1923年)が、昔から体験者によって語り継
がれてきたが、すでに86年も経ち、直接の体験者は少なくなった。子どもの時は
僕の周囲にも体験者が沢山いて、生々しい話を聞き、震災の恐ろしさを個人的に
聞いたものだが、不思議と震災記念○○年の記憶がない。震災15年目は、昭和
13年なのだが、考えると日支事変が始まっていて、震災を振り返るどころではなか
ったのかもしれない。

昔、よく年寄りから地震70年周期説を聞いた。関東大震災は安政大地震(1855年)
から68年目に起き、その前の天明地震(1782年)は83年前、そして、さらにその前
の元禄地震(1703年)は79年前に発生している。こうしたサイクルが70年周期説な
のかもしれないが、まったく根拠はない。

幸い僕の80年に近い半生の間では、一度も大きな地震を体験していない。その代わ
りと言ってはおかしいが、空襲(1945年)を体験している。と言っても落ちてきた焼夷弾
を火たたきで消した程度である。神戸・淡路大震災15年、当時のテレビの画像をみて、
寺田寅彦博士の”災害は忘れた頃にやってくる”という警句を思い出した。

        大學は出たけれど”の時代

2010-01-16 06:26:35 | Weblog
大學就職内定率が過去最低で73.1%だという、これは”就職氷河期”といわれた
2000年10月(調査)の73.5%より0.4%低い。高卒の内定率に至っては68・1%
(昨年11月)と前年同月に比べて9・9%も落ち込んでいる。景気が悪いのが、最
大の原因だが、政治の停滞がこれに輪をかけている。

古い話で恐縮だが、昭和28年(1953年)も大変な就職難の年だった。戦後の学制
改革で、旧制と新制の大学生が一緒に卒業、経済もまだ高度成長軌道に乗ってい
ない時代だった。それこそ昭和初期の”大學は出たけれど”の時と同じであった。
幸い、僕は就職口があったけれども、友人の中には、就職できず学生時代の進駐軍
のバーテンダーのアルバイトをそのまま続けている者もいた。

先日の新聞に大学生の就職人気ランキングが載っていた。男女総合ランキングでは
一位が全日空(ANA)、二位伊藤忠、三位三井物産、四位資生堂、五位オリエンタル
ーランドという順位だった。今の学生たちの就職志向が判るが、会社の名前は変わっ
ても、大手志向なのは変わりがない。

昭和28年当時はどうだったかー。文系では新聞社や映画会社、出版社などに人気が
あり、商船会社も難関だった。テレビも航空会社もまだなかった。理系では製鉄、炭鉱
などへの就職希望者が多かった。石炭から石油へのエネルギー”革命”以前の時代で
ある。

日本航空は、この年資本金20億円(うち10億円は政府出費)で発足、以来毎年大学生
の就職ランキングの上位を占めていたが、今年は52位である。時代の変遷である。”寄
らば大樹の下”という諺があったが、今はどうなのだろう。難しい時代だ。

      小沢さん、”そろそろ老兵は消えたら”

2010-01-15 07:17:10 | Weblog
小沢一郎民主党幹事長は、どうして東京地検特捜部の任意事情聴取に応じないのだ
ろうか。自分の政治政治資金団体が土地購入をめぐって疑惑をもたれて捜査が進んで
いるのである。やましい事がなければ、積極的に協力すべきである。メデイアは連日、
この事件を報じ、来週から国会が始まれば、野党がこれを追及するのは必至だ。また
またこの大事な時に政治は停滞してしまう。

小沢氏は事情聴取に応じない理由として”多忙”をあげているようだが、先日テレビの画
面には、史上最年少の囲碁の平山裕太名人と対局している姿が写っていた。成人の日
であり、新成人を迎えた平山名人と碁を打って悪いというわけではない。小沢氏の碁風
について黄孟王九段は”大局観があって果敢に攻める碁”と評しているが、政治家として
はちょっと大局観に欠けているのではないだろうか。

小沢氏は何かというと「国民」という言葉を口にする。先日も自分の事務所が捜索を受けた
後の記者会見で”私どもは決して法に触れるようなことをしたつもりはない。それは国民も
理解してくれている”と言い”われわれは国民の生活を守るのが第一、そのためにこれから
も頑張る”と語っていた。

僕も国民の一人だが、小沢氏の言う事、やる事はわからない。なぜ4億円も出して世田谷
の一等地に政治団体関係者の寮を建てるのか。国民感覚では解らない。政治家としてKY
になってきたようだ。小沢氏は平山名人との対局のあと”そろそろ老兵は消え去る時”と語
っていたそうだが、国民のためにそれが一番である。




        スーダン人からの2年ぶりの手紙

2010-01-14 07:26:18 | Weblog
スーダンのイブラヒム・バシャール君から2年ぶりに年賀状が届いた。バシャール君
は23年前、JICA(國際協力機構)の技術研修員として来日、1年間、自動車工学を
学んだ。その際、他国の研修員と共に僕が面倒をみた一人だ。

僕の経験では開発途上国、とくにイスラム圏からの外国人とのお付き合いは難しい。
多分、日本人は歴史的に回教圏との接触がなく、彼らの考え方、生活習慣について
あまり知らないかだろう。1年間、研修を通じて面倒をみても、帰国後礼状を貰ったこ
とはない。欧米人や中国人の中には、クリスマスや新年には挨拶のカードを送ってく
るが、回教圏からはない。

そんな中にあって、バシャール君は帰国以来、毎年新年には挨拶のカードをくれ近況
を伝えてくる。彼は数年前から家族と一緒に出稼ぎでUAE(アラブ首長国連邦)に滞在
している。たまたま、2年前、僕はUAEドバイの首長一族の招待で同国を訪れる機会に
恵まれた。そこでバシャール君に再会できると思い、事前に僕の訪問スケジュールを
送ったが返事がなかった。

僕は彼が故国に帰ったのだと残念に思っていたが、今年貰ったカードによると僕のUAE
訪問にはいっさい触れていない。多分僕の手紙が届かなかったに違いない。UAEといえ
ば、最近世界一高いビルが建ち、いろいろセレブな話題を提供しているが、郵便事情、
とくに配達面が悪いようだ。バシャール君を始め郵便を私書箱(PO-Box)扱いにしている
人が多い。それでも未配事故が多く、僕は他にも同じような経験をしている。その点では
日本の郵便制度は世界に誇れる。

        後期高齢者は運転免許返納を!

2010-01-13 09:20:50 | Weblog
91歳の老ドライバーが首都高速道路を逆送して対向車に正面衝突して亡くなった。
先日もどこかの地方都市で同じような事故が起きている。痛ましい考えさせられる
事故である。何故90歳もの高齢者がハンドルを握るのかー。今後、高齢者社会が
ますます深まってくる。真剣に取りくまなければならない問題である。

反発を覚悟の上であえて提案すれば、75歳以上の後期高齢者は免許を返納すべ
きである。「紅葉マーク」といった”姑息”の方法ではなく運転させないほうがよい。
人によって個人差はあるが、後期高齢者になれば、反射神経は鈍くなってくるし、
視力も聴力も若い時に比べれば、はるかに劣る。それは自転車の運転でさえ、日
常、僕は痛切に感じている。

交通不便な地方へ行けば、車がないと買物に行けないし、病院へも行けない。確かに
現状はそうだと思う。しかし、東京23区の場合には公共交通機関は整備されており、
行政側からも65歳以上には安い値段でバスと都営地下鉄のパスが提供されている。さ
らさらハンドルを握る必要はない。

交通不便な地域の老人が日常生活に不便だからといって、車を運転するのは自殺行為
である。自分ひとりならよいかもしれないが、他人まで巻き込むことになる。社会全体の
安全のためにも、後期高齢者の免許証は返納させ、その代わり老人が安心して日常生
活が送れるような基盤をつくるべきである。

         「どんと焼き」と「どんどん焼き」

2010-01-12 06:49:24 | Weblog
テレビの番組で新潟県十日町の古くから伝わる壮大な「どんと焼き」の風景をみた。
「どんと焼き」は一般には小正月(1月15日)に飾ってあった正月のお供えや門松を
神社に持参しお焚きして貰う行事である。所によっては「左義長」とか「とり正月」と
呼び名が違う。東京では江戸時代「どんと焼き」が火元で大火になったことがあり、
鳥越神社以外あまり盛んには行われていない。

わが家では、毎年小正月には小さな松飾りを近くの神社へ持参し、お賽銭をあげて
お焚きして貰うが、年によっては忘れることがあり、その時には庭の隅で乾かしてか
らたい肥として使う。しかし、最近都会では庭のある家が少なく、一般ゴミとして出し
ている家が多い。古い感覚ではバチ当たりだが、今は仕方がない。

戦前、子どもだった頃、僕は「どんと焼き」と「どんどん焼き」とがごっちゃになっていた。
「どんどん焼き」とは、大正から昭和の10年代、東京の下町の駄菓子屋で子ども相手に
あったお好み焼きである。池波正太郎の「食卓の風景」の中にも”「どんどん焼き」は下
町の人間にとってこれほど郷愁をそそるものはない”と紹介されている。

戦前、東京の下町の駄菓子屋には店の隅に鉄板焼を置いたコーナーがあり、こどもたち
はここで「どんどん焼き」を食べながら遊んでいた。一銭かニ銭を払うと、おばさんがアルミ
の容器に練った小麦粉に注文の具をいれて運んできた。これを自分で焼くのが楽しみだ
った。具は赤い干しエビとかイカのげそ、時には甘いアンもあった。

戦争から戦後の食糧難で、今では東京の町から「どんどん焼き」は姿を消し、その名
前さえ知らない人が多くなった。第一、駄菓子屋がなくなった。東京では「もんじゃ焼き」が
今や有名だが、池波正太郎の本には出てこないし、僕も戦前名前もきいたことがない。した
がって郷愁もない。

       平成生まれの新成人に希望を!

2010-01-11 08:06:41 | Weblog
今年初めて平成生まれが成人式を迎えた。昭和1ケタ生まれの老人にとっては、改めて年の
流れの速さに驚かされる。「成人の日」は平成17年の祝日法改正で改められ、今年は今日、
11日だと思っていたのに、新聞をみると昨日、10日に式典をあげた自治体が多い。役所のご
都合主義によるものだが、これではなんのために「成人の日」を設けたのか解らない。

成人式というと、数年前までは新成人による暴力沙汰が多かった。が、ここ1,2年はその騒ぎ
もなく良かったが、今年はまた佐世保、沖縄、福井各地で酒に酔った新成人が騒ぎを起こし逮
捕者まで出している。ある市長は挨拶の中で”ルールを守りなさい”と挨拶をして会場から大き
な拍手を受けたという。その通りなのだ。

新成人が荒れる背景に政治の不安定がなければ良いと思う。昨年の総選挙で政権を獲得した
鳩山政権が、その掲げたマニフェストの大半を破っている。これは国民への約束違反である。そ
して国と国とのルール違反まがいのことをしている。それより新成人の最大の関心事は就職難
による政府の将来への展望とビジョンの欠如である。

今週から国会審議がはじまるが、民主党政権幹部二人の政治資金不正問題が相変らずはっきり
しない。そんな状況下で、小沢一郎幹事長は参議院議員選挙のことだけに夢中のようである。与
党も野党も政治家たちは、もっと目を大きく開き、権謀術策に明け暮れず国のため、国民のための
政治をしてもらいたい。新成人に希望を与えて欲しい。

     「愛国行進曲」と「インドネシア・ラヤ」(国歌)

2010-01-10 06:41:58 | Weblog
昨日、川崎市民ミュージアムで上映中の大東亜戦争中の映画「セレベス」(秋本憲監督
大木正夫音楽 昭和19年 日本映画社製作)を見てきた。3時間もの長編記録だが、ス
ラウエシュ島を知らない人でも、当時の日本の軍政を知る上で参考になり貴重な記録で
ある。

映画は昭和17年1月11日、海軍落下傘部隊がセラウェシ島北部のメナドに降下した場面
から始まり、全島を軍政下に置いた後の各地を海軍報道班員のレンズを通じて2年間、丹
念にまわり取材している。現地の子どもたちが宮城遥拝、国旗(日の丸)掲揚、日本式体
操をしたり「愛国行進曲」を歌う姿。開戦記念日を祝って現地の各部族が日の丸を先頭に民
族衣装でマカッサル市内を行進する姿などなど。

映画は銃後の国民に新しく軍政下に置いたセレベスの姿を紹介するのが目的だから、当然
全編、これ”大東亜共栄圏”萬歳萬歳で描かれている。かっては”首狩り族”といわれた山中
のトラジャ族にまで「愛国行進曲」で行進させ、皇威が行き届いた姿を紹介している。

”見よ東海の空あけて旭日高く輝けば”で始まる「愛国行進曲」は昭和12年、当時の政府が
”全国民が永遠に愛唱する歌”として選定したもので、大東亜戦争を通じて最大の国民歌で
あった。映画「セレベス」は、この「愛国行進曲」を上手に使って効果をあげているが、一方で
当時蘭印(現インドネシア)では禁止されていた「インドネシア・ラヤ」(現インドネシア国歌)の
メロデイをBGMに使用している。

インドネシアの将来への独立について当時陸海軍の間に意見の相違があり、海軍は独立に対
して同情的だったという説もある。推測だが、もしかすると音楽担当の大木正夫がそれを知って
意識的に「インドネシア・ラヤ」を使用したのかもしれない。あるいは戦後、交響曲第5番「ヒロシ
マ」などの作曲がある大木の個人的なレジスタンスなのかもしれない。




    大東亜戦争 初の落下傘部隊の映画上映

2010-01-09 07:30:13 | Weblog
川崎市民ミュージアム(www-kawasaki-museum.jp)で、今日(9日)から11日
まで戦争中の珍しい記録映画とニュース映画が上映される。記録映画は「セ
レベス、海軍報道班員の報告」(昭和19年、監督秋本憲、音楽大木正夫、日
本映画社 白黒177分)。ニュース映画は「日本ニュース」第89号(昭和17年
2月8日)。いずれも製作に当たった故秋本氏のご遺族が川崎市に寄贈、ミュ
ージアムが最近、フィルムの不燃化作業を終えて上映の運びとなった。

「セレベス」(現在のインドネシア・スラウェシ島)は大東亜戦争緒戦の17年1月
11日、日本初の落下傘部隊(海軍)が島北部のメナドに降下した地である。とこ
ろが、当時の大本営は、この戦果を1か月後、陸軍部隊がスマトラのパレンバン
に降下した2月16日になって国民に明らかにしている。その理由は軍事上の機
密とされている。

銃後の小国民だった僕らは、落下傘部隊の活躍に”血わき肉踊り”させたものだ
が、なぜかメナドの海軍部隊よりはパレンバンの陸軍部隊のほうが強く印象に残
っている。その理由の一つは”藍より蒼く大空に大空に”で始まる軍歌「空の神兵」
(梅木三郎作詞、高木東六作曲)の影響があったのだろう。

川崎市民ミュージアムで上映される「日本ニュース」の上映日時も17年2月8日であ
る。大本営発表の1週間前だが、多分、発表にあわせて実際の上映は17日以降だ
ったと思う。

大東亜戦争下、蘭印(現インドネシア)では、メナド、パレンバンの他に西チモールの
クーパンにも降下しているが、三番目(2月21日)のためか、一般にはあまり知られて
いない。そのほか、クーパンでは降下のさいかなりの犠牲者が出ている。メナドの際
にも降下部隊を乗せた一機が誤って友軍の飛行機に撃ち落され犠牲者が出ている。
大本営の発表にはないが、歴史の裏面にはいろいろとある。