「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         日本離れする米国の雑誌

2010-01-08 06:42:09 | Weblog
敗戦直後まだ東京に焼跡が残っていた頃、日比谷公園の一角に連合軍民間情報教育局
(CIE)の図書館があった。連合軍の占領政策の一環として全国主要都市にも同じ図書館が
あって、ここが当時の日本人の米国を知る窓口になっていた。作家江戸川乱歩の日記にも
登場してくる。

まだ学生でろくに英語も出来なかった僕も米国の”匂い”を嗅ぎに出かけ、新刊の雑誌をみ
た想い出がある。写真週刊誌「ライフ」情報誌「タイム」「ニューズウイーク」「リーダーズダイ
ジェスト」などなど。館内でテキパキと働く米国人の女性も珍しく魅力的だった。

昨日の新聞で「タイム」誌が東京の支局を閉鎖することを知った。「ライフ」誌はすでに1972
年に発行を停止しており「ニューズウイーク」も昨年東京から撤退しているとのことだ。日本
が”No one"とおだてられた時代もあったが、今や、日本はニュース価値がなくなり、市場価
値もなくなってきたのだろうか。

僕がCIEの図書館に出入りしていた頃、雑誌のグラビア写真に出てくるフォードやシボレーな
どの米国の高級車は夢の夢だった。ところが、昨日の新聞によれば、米国の新車の販売台数
が中国に抜かれ、その王座を譲ったとある。僕の中国へのイメージといえば、人民服を着た大
衆が自転車で大通り行く姿である。世界は急速にしかも確実に変わってきている。頭の固くな
っている後期高齢者は、なかなか、そのギヤーチェンジが出来ない。


      藤井財務相の辞任と後期高齢者政治家

2010-01-07 07:22:03 | Weblog
藤井裕久財務相(77)が体調不良を理由に辞任し後任に菅直人副首相が就任する。
予算案を作った責任閣僚が、その審議が始まる直前に交代するのは異例のこと。鳩
山内閣にとっては大きなダメージである。こと、健康に関する辞任だからやむをえない
のだが、今一つ考えさせられるものがある。

藤井さんは僕と同じ後期高齢者である。昨年9月、鳩山内閣が発足し、藤井さんが財
務大臣に任命された時、正直いって僕は”ご苦労さん”という気持ちと同時に激務に耐
えられるのかと心配した。また”今さら”という気持ちがないでもなかった。

75歳という後期高齢者の年齢区切りは正直である。後期高齢者の仲間が集まると話
題になるのは、残念ながら不思議と75歳を過ぎると心身ともに弱ってくることだ。前期
高齢者とは違う。

藤井さんはテレビの画面でみる限り、元気で溌剌としていた。若い時代、野球の選手だ
ったというだけにさすがとも思った。(昭和21年、都予選で僕の中学は藤井さんの東京
高師付属中学と試合したことがあった)でも、財務大臣という職は隠居仕事では出来な
い激務だった。やはり、自分の健康が一番である。

藤井さんの辞任の日の新聞に自民党の山崎拓氏(73)が谷垣総裁を訪ね、8月の参院
選挙に、自民党の70歳定年という内規を改め公認にしろ、公認しなければ脱党すると
迫っていたという記事が載っていた。前期高齢者だから、まだ元気だが、かりに自民党が
比例代表で彼を公認当選させれば、任期中に後期高齢者入りする。後期高齢者と政治
家、考えなくてはならない問題である。



       良かったな無事終了イエメン戦

2010-01-07 06:55:44 | Weblog
テロ警戒下でのサッカーイエメン戦が何事もなく終了した。それもFC東京、平山
選手のハットトリックで逆転勝利というオマケつきの勝利だった。岡田ジャパン
の今年初の海外戦だというのにテレビ中継がなく、試合の模様が判らず残念だ
が、とにもかくにも無事終了よかった、よかった。

         イエメンとのサッカー試合

2010-01-06 07:15:04 | Weblog
サッカーのアジア杯最終予選を前に開催地のイエメンのサヌアが厳重なテロ警戒下
にあるのを新聞でみた。スタンガンを持った警察官の横を練習のため会場入する岡
田ジャパンの姿も写真に載っていた。こんな状況下で、果たして試合をやっても大丈
夫なのか僕は疑問に思った。

AFC(アジアサッカー連盟)は予定通り試合をやれと、いい、イエメン・サッカー連盟も
威信にかけて強行するとのこと。現地からの報道では市内は平穏らしいが、アデン
など地方都市では撃ち合いが起きている。試合はものものしい警戒のうちに行われ
るらしい。

先日、米国で旅客機爆破未遂事件が起き、犯人のナイジェリア人がイエメンのアルカ
イーダ組織で訓練を受け、イエメンの「アラビア半島アルカイーダ」と名乗る組織からも
犯行声明もあった。これに対して、イエメン政府軍が組織の取締りに乗り出し、すでに
60名を殺害したという報道もある。

こんな状況下で、現地の米英仏など欧米の大使館は閉鎖し、日本の大使館も一時、領
事業務を停止し、応援にかけつける日本からのサポーターに自粛を呼びかけた。当然の
ことである。

48年前の1962年、僕は王制が倒れた時のクーデター直後のイエメンを取材している。当
時イエメンは日本からみれば”秘境”の地であった。住民はガートという麻薬っぽい草を
かみ、男は腰に”蛮刀”を差していた。正直いって僕は恐怖感を持った。当時のトラウマか
らか、岡田ジャパンが無事試合をおえることを祈っている。


       台湾の二人の「戦友」からの年賀状

2010-01-05 07:03:49 | Weblog
今年も台湾の二人の「戦友」から年賀状を頂戴した。その一人、林さんからの賀状
は「謹賀新年、新しい年を迎えて皆々様のご健康と御多幸を心よりお祈り申し上げ
ます」と、まったく日本式。もう一人陳さんの賀状は、中国語と日本語とのチャンポン
で解りにくいが、内容は近況報告と戦争中の想い出、それに戦死して靖国神社に
祀られている二人の弟さんのことだ。

僕はお二人と数年前、九段会館であった第二五軍司令部の戦友会で知り合った。
当時日本で流布されていた同司令部(スマトラ)での防空壕虐殺のデマについての
調査を通じてであった。お二人は当時、軍属として同司令部に勤務していた。以来
僕は「戦友」としてお付き合いさせて貰っている。

最近、日台関係が少しおかしくなっているのではないかと僕は心配している。一昨年
国民党の馬英九政権になってから関係がギクシャクしている感じだ。昨年は日本の
台湾の窓口機関である交流協会の代表が”失言”から交替し、さらにはNHKの歴史を
捻じ曲げた偏向番組が放送され、当時を知っている人から告訴されている。

昨年12月、馬英九政権の幹部の一人が日台関係の将来にふれ、両国はかっての(日
本の植民地時代)の人的関係から離れ新時代を築くべきだ、と提案していた。これは
間接的な李登輝・元総統への批判である。新時代は結構だが、肝心の日本の戦争を
知らない世代が、NHKのような誤った歴史認識をしていては、中国に通じる馬英九政権
の思うつぼである。


        貴金属店の犯罪 日本人の警戒心

2010-01-04 06:40:58 | Weblog
東京銀座のどまん中の貴金属店で新年早々壁に穴をあけられ、3億円相当の高級時計
が盗まれた。昨年2月にも同じ手口で、近くの銀座の店で5000万円の貴金属が奪われて
いる。昭和43年12月、東京府中の東芝工場のボーナス3億円が警官を装った男に強奪さ
れた時、その額の巨さに驚愕したものだが、今は3億円といってもそれほど驚かなくなった
が、一方では犯行の手口の大胆さにびっくりする。

わが国は昔から治安の良さでは世界でも誇れる国だった。つい最近まで東京のような大都
会でも外出時、鍵をかけずにでかけた。昭和30年代まで、わが家でも鍵をかけてもその鍵
を郵便箱や庭の植木の繁みに隠してでかけても平気だった。

平成の始めの頃、僕は途上国の技術研修員と一緒によく国内を旅行したが、困ったことの
一つは、昔ながらの日本旅館に泊まった時、部屋の鍵のちゃちなことだった。日本人には平
気なのだが、いつも彼らから”大丈夫なのか”とクレームがついた。たしかに外国旅行してみ
てわかるのだが、家の警備は厳重で寝ずの門番さえ置いている。

”国際化”の影響なのか、日本の犯罪は増えており、犯罪の手口も多様化してきている。それ
につれて昔はなかった警備会社など出来ている。それでも、こういった銀座の貴金属店のよう
な犯罪が起きる。欧米の貴金属店の警備は過剰とも思えるほど厳重だ、それに比べれば、日
本の店は無防備にちかい。犯罪を目的した外国人が増加してきた今、われわれ日本人ももう
すこし普段から警戒心を強くもたねばならないのかもしれない。


       「小倉百人一首」 「愛国百人一首」

2010-01-03 06:47:15 | Weblog
戦前、正月の家の中の遊びと言えば「小倉百人一首」だった。僕の耳には、まだ子ども
だった頃聞いたカルタ取りの読み手の声が残っている。が、幼かったためか遊びに参加
したことは少なかった。むしろカルタの絵札を使った”坊主めくり”のほうが想い出がある。
たしかニ、三人で絵札を裏返しにして交互にめくり「坊主」の絵札が出ると相手方の札を
受け取る。そして最後に札の数で勝負が決まるといものだった。

戦争末期の昭和19年の正月、政府の情報局は、この「小倉百人一首}に代わって「愛国
百人一首」を国民に推奨した。佐々木信綱、土屋文明、斉藤茂吉など当時の著名な12人
の歌人に依頼して万葉時代から幕末までの「愛国」の歌百首を選んだ。その狙いは「愛国」
を通じて国民の戦意を昂揚することにあった。
「あおによし奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」(小野老)もその一つだ。

残念ながら「愛国百人一首」は政府が鳴り物入りで宣伝した割には、国民の間には広まら
なかった。わが家では、僕の一人きりの姉が動員の過労と栄養失調から倒れ新年早々か
ら病床にあった。僕は毎日、姉の解熱用の氷一貫目(約4㌔)を近くの氷屋に買いに行くの
が日課だった。

翌20年の正月には東京はB-29機の空襲が本格化してきてカルタ取り遊びではなくなった。
1月4日から中学2年だった僕らにも勤労動員がくだり、軍需工場へ働きに出た。多分「愛国
百人一首」で遊んだ日本人は、ほとんどおらず、その名前さえ知らないのではないだろうか。
戦後「愛国」は”悪”という変な風潮で「愛国百人一首」は陽の目をみることがないが、味あ
いのある歌が多い。


          失われた東京の正月風景

2010-01-02 07:01:35 | Weblog
年々、昔あった”正月”が東京の街から失われてきた。あの日本髪の女性の華やかな着物
姿など、わが町では見られなくなった。かってはどこの路地からも聞こえてきた追羽根の音も
ない。原っぱの空高く上がっていた奴凧の勇姿も今は見られなくなった。駄菓子屋の前にたむ
ろしていたお年玉大臣の子どもたちの笑い声もない。

考えると、昔はたいていどこの家でも門ごとに元旦には日の丸を掲げた。昨日初詣に出かけた
が、神社までの道筋には一軒もなかった。我が家もそうである。2日には年始の習慣があった。
向こう三軒両隣りの家々に手拭や葉書を持って新年の挨拶に回った。サラリーマンは一升ビン
をぶらさげて上役の家に年始に出かけご馳走になるのが習わしだった。

東京の山の手にあるわが家にも昭和30年ごろまでは、正月になると、烏帽子をかぶった太夫と
小鼓を叩く才蔵の三河万才がやってきて賑々しく年賀の口上を述べてまわってきた。獅子舞も
きたものだった。大相撲の正月場所の触れ太皷の一行もやってきた。

夜になると、家々からは家族があつまってお正月の遊びをする賑々しい声が漏れてきた。いろは
カルタ、すごろく、福笑いという遊びもあった。福笑いとは、目かくしておかめの顔の上に目鼻口
などを置き、その可笑しさを笑うだけの他愛のないものだった。トランプ遊びも盛んだった。

核家族化が進み、家族の絆が薄れてきて、正月風景も失われてきた。何か寂しい気がする。

       昭和22年元旦 平成22年元旦

2010-01-01 08:02:07 | Weblog
平成22年の新しい年が明けた。おめでとうございます。東京は好天に恵まれ初日の出
も拝めたようだ。朝8時前、一家でお雑煮を祝う前に近所の鎮守の森へ初詣に出かけて
きた。昨年は鳥居から拝殿まで長い列ができていたが、今年は時間のせいか参拝客は
三々五々、まばらであった。(写真)

元旦には毎年小ブログは「昭和」と「平成」を比較して書いているが、昭和22年の新年は
どうだったのかー。亡父の書き損じた年賀状が一枚残っていたが、それには”自由な平
和の春を迎えて皆様の御清勝を祈る”という書き出しだった。戦後2年目の新年の時勢が
うかがえる。

僕は16歳。旧制中学校の4年生だったが、親友の家の防空壕を改造したバラックで新年
会をした想い出がある。薬剤師をしていた親友の父親がアルコールを調剤して祝い酒を
造ってくれた。当時はまだ酒が自由に手に入らず、町には闇のカストリ焼酎が横行して
いてメチールアルコールを飲んで失明する者もあった。

そのカストリの名をとったカストリ雑誌というのもあった。仙花紙という粗悪な紙の雑誌で内
容もエロ、グロ。ナンセンス。中でも「猟奇」という雑誌に載った「H大佐夫人」は警察の取締
りにあい発売禁止になったが、僕はどこからか手に入れて読んだ。不良少年だったわけだ。

初詣に出かけた記憶がない。僕だけでなく戦後まもないこの時代は、世の中全体が食べる
のに精一杯で初詣どころではなかった。この年の2月、東京郊外の八高線で列車が脱線して
食糧買い出しの乗客163人が亡くなっている。今とは比較できない厳しい時代であった。