「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

      菅直人「拉致問題解決本部長」の献金

2011-07-21 07:11:51 | Weblog
東日本大震災以降、菅政権の失政で政治が空転しているように僕には見える。国をあげて解決しなければならない北朝鮮による同胞の拉致問題もそうだ。誰がこの問題の大臣だったかも忘れかけていたが、中野寛成担当相が先日ソウルで韓国の統一相と会見し「(拉致問題解決にむかって)「共同体制構築」がとれた。ここ数年で足並みが一番がそろった」と能天気なことをいっていた。

能天気と失礼なことを言ったが、衆院予算委員会での菅総理の答弁を聞いていると、情勢はそれほど単純で楽観的なのだろうか。それとも国民の知らないところで「北」との水面下の秘密交渉が進んでいるのだろうか。僕にはそうとは思えない。自民党の古屋議員によると、菅総理の政治資金管理団体は、こともあろうに拉致事件の容疑者の長男(26が関係する団体に6200万円も”献金”していたという。

菅総理は一国の宰相であると同時に「拉致問題解決本部長」でもある。政治資金の献金を受けていた長男は、あの「よど号」事件の主犯と欧州での拉致事件実行犯として指名手配されている女との間に生まれた男でピョンヤンで生まれ、数年前帰国、東京郊外の市議会選挙に出たが落選している。どう見たって「拉致問題解決本部長」が献金する贈主ではない。まさか解決へ向かっての勝算あっての事なのか。

古屋議員が国会で取り上げた、この事件は「産経新聞」の特種のようで、他のマスコミはほとんど扱わない。扱っても申し訳程度だ。「産経新聞」の読者でなければ理解出来ない。何故なのだろうか?昔は他社の特種でも重大な記事は後追いしたものだ。最近政治不信とならんでマスコミへの不振も高まってきている。明治の御代には新聞は「社会の木鐸」(ジャーナリズムは世人に警告を発し教え導く)=(三省堂慣用句ことわざ辞典)であった。

「産経新聞」に16年前、菅総理が「北」の要人からプレゼントを貰っている写真が載っていた。「北」との接点があるのなら一日も早く拉致被害者を連れ戻して欲しい。

     武田薬品からの患者宛意味不明なペーパー

2011-07-20 06:11:11 | Weblog
糖尿病と高血圧の治療で4週に1回通院している近所の医者から昨日「患者様」へと書かれた武田薬品工業からの平成23年6月付けの1枚のペーパーを貰った。まず文面をそのまま紹介しよう。
     「アクトス、メタクト、ソニアスに含まれた成分に関するフランスの措置について」
患者様に服用いただいております糖尿病治療薬「アクトス」「メタクト」「ソニアス」に含まれた成分(ビオグリタン塩酸基)につきましては、このたび、フランスで実施された調査において、膀胱がんのリスクがみられたことから、フランス国内において新たな患者様への処方を控えること、また、服用している患者様においては服用を中止すべきではなく、主治医と相談するよう、行政当局から通知がありました。現在、弊社においても、これらの薬と膀胱がんとの関連性において検討しており、現時点においては明らかに関連性は示されておりません。(ママ)

このペーパーを読んでまず、理解できるのは、フランスの調査で上記糖尿病治療薬の服用によって膀胱がんのリスクが見られ、新たな患者への処方を控えること。服用中の患者は服用を中止すべきではなく、主治医と相談せよ、ということだが、これはフランスの話だか日本の話だか僕にはわからない。ペーパーは”(この旨)行政当局から通知がありました”とある。文意からは行政当局(厚生労働省)から武田薬品に通知があった、ともとれる。

僕は6月29日のブログで書いたが、糖尿病治療薬「アクトス」を2年前服用し始めたが、昨年1月と6月の2回、10年前に手術した膀胱がんが再発、患部を摘出手術している。それだけに新聞報道でフランスのことを知り、びっくり仰天した。武田薬品は”現時点では膀胱がんとの関連性は示されていない”と断言しているが、多分綿密に調べれば、僕と同じようなケースは多いと思う。武田薬品は”服用を中止すべきではなく”と言われているが、僕は医者と相談のうえ、服用を中止した。

    「なでしこ・ジャパン」の女等(おみなら)の快挙

2011-07-19 05:47:37 | Weblog
「なでしこ・ジャパン」のW杯での優勝は、震災後沈みがちな日本の社会を元気づけ、奮い立たせる久しぶりの快挙であった。体格が大人と子供ほど違う米国チームを相手に取られても取られても点を取り返し、PKに持ち込み金メダルをものにした姿はまさに「大和撫子」そのものであった。

「なでしこ」は、日本の野に咲く秋の七草の一つだそうだが、僕はまだ見たことはない。老妻に聞くと、花はうすいピンク色で、その楚々とした姿から日本の女性を褒める代名詞のように使われている。ネットで写真をみると、たしかに”しとやか”で”りりしい”日本的な花である。

「大和撫子」というと、僕らの世代は、戦争中大流行した「愛国の花」の歌を連想する。「なでしこ」という言葉は歌詞には出てこないが、日本の女性を花に例えた「大和撫子」の賛歌である。
   ♯ 「愛国の花」(福田正夫作詞、古関裕而作曲、渡辺はま子、昭和13年)
     一、真白き富士のけだかさを こころの強い盾(たて)として
       御国(みくに)につくす 女等(おみなら)は
       かがやく御代の山桜 地に咲きにおう国の花
     一、老いたる若きもろともに 国難しのぐ冬の梅
       かよわい力よくあわせ 銃後にはげむ
       りりしくも ゆかしい国の花

「なでしこ・ジャパン」の女性には一見昔流の”かよわさ”や”ゆかしさ”からは遠いように見える。しかし、チームが優勝と共に手にした”フェアー・プレー”賞は「大和撫子」の持つ”りりしい”姿の証左である。「なでしこ・ジャパン」の優勝は、まさに御国につくす女等の証左であった。


         菅の国連出席、国際的な恥の上塗り

2011-07-18 05:14:00 | Weblog
菅総理が9月21日からニューヨークで開かれる国連総会に出席し、演説したい意向だという。総理はすでに関係者に演説草稿の作成を指示したとの事。総理は繰り返し”自分は辞めるとも辞任するともいったことはな”と居座り発言をしている。8月末辞任説はどこかっへすっ飛んだ形だ。すでに菅総理の辞任は世界周知の事だ。その総理が何を言ったって世界は耳を貸さない。恥の上塗りにすぎない。

菅総理は昨年9月の国連総会にも出席、オバマ米大統領についで演説したが、僕はたまたまCNNのニュースでその場を見たが、満席だった議場が菅総理になったとたん、ガラガラになった。演説が日本語で内容も日本人でも理解しにくい「最低不幸社会」だったからだ。ご本人は得意になって持論を展開したつもりなのだろうが、国際的には通用しない。さらに、演説は母国語の日本語なのに「疾病」を”しつびょう”と読み違えていた。正しくは”しつべい”である。

唯一つの具体的な提案は、母子保健やエイズ感染予防策として、2011年から50億ドルを国際社会に贈るという”菅コミットメント”だった。果たして、このコミットメントが実施に移されているかどうか、僕は不肖にして知らないが、「子供手当て」の国際版になっていなければよいのだが。

菅総理は国連総会に出席して何を言いたいというのか。東日本大震災の復興もままならず、福島原発事故の収束も思うようにいっていない。自分の頭のハエも終えない、死に体の総理の演説など誰も相手にしない。わざわざニューヨークまで出かけて、自分の恥を世界にさらしても仕方がない。

      市場に出回っている食用肉は本当に安全か    

2011-07-17 05:51:29 | Weblog
福島県産肉用牛から、また基準値を越える放射能セシウムが検出された。南相馬市、淺川町についで郡山市、相馬市、喜多方市と、東電福島原発事故のあった浜通りだけではなく中通り、会津と県全域にわたっている。放射性セシウムが検出された132頭はいずれも配合飼料に稲わらを混ぜて牛に与えていたようだ。

40年前、僕は郡山市の民放に勤務、ほとんど福島県全域を歩いたが、今回肉用牛から放射性セシウムがは検出された地域は、どこも静かな緑の自然の山ふところに抱かれた、すばらしい所ばかりだ。しかも今回の原発事故の地点からで20キロの警戒区域や30キロの緊急避難準備区域だけではなく喜多方市などは福島第一原発現場からは100キロ以上も離れた場所だ。それなのに、何故こんなことが、しかも事故から4か月以上たって発覚するのだろうか。

僕は放射能汚染問題には、まったく素人で、原発事故につぃては政府の発表を頭から信じ込んでいた。事故の直後、枝野官房長官が若いのにもかかわらず、まったく動ぜず胸をはって発表する姿にたのもしささえ感じていた。水素爆発で放射性汚染物資が各地に散り、政府が農産物や海産物に対して摂取禁止や出荷禁止措置をとったが、その時も枝野長官は、市場に出回っているものは食べても害はないと、言い切っていた。

しかし、今回放射性セシウムが検出された食用肉は、なぜか汚染が事前に判らずに、地元福島だけではなく、東京など31都道府県に出荷され、流通していた。多分、汚染肉の一部はすでに食されていたに違いない。すこし食べたぐらいでは、どうといった事はないのだろうが、あれだけ”食の安全”を国民に保証していた枝野長官である。結果的には国民をだますことになった”ペテン師”と言わざるをえない。

     神宮第二球場で大相撲本場所が催された頃

2011-07-16 06:19:39 | Weblog
猛暑の炎天下の昨日、僕は67年前に卒業した母校(旧制中学)の後輩たちの野球の応援に旧友たちと明治神宮第二球場へ出かけた。選手はもう孫の世代である。試合は80歳の超OBの懸命な応援にもかかわらず10対5で残念ながら3回戦で敗退した。僕らの時代は戦後復活した第一回大会の頃(昭和21年)で、球場がなく砂利の学校の校庭で試合をしたのを覚えている。

神宮第二球場は、その時代にはなく神宮外苑相撲場であった。現在の神宮球場はあったが、進駐軍が占拠して使用できなかった。同じように大相撲も戦前の両国国技館が占領軍に占拠されて、メモリアル・ホールと呼ばれ、使用禁止。このため、大相撲は昭和22年6月と11月それに23年5月場所は、この相撲場で興行されている。

昭和22-23年といえば、僕らは今の学制でいえば高校2年から3年の年代だが、東京はまだ焼け跡が各地に残り、食糧難の時代で、正直いって大相撲どころではなかった。昨日野球の応援に集まった旧友たちは誰も大相撲明治神宮場所のことを忘れていた。

当時のことを調べると、明治神宮場所は晴天10日制で行われ、22年6月、11月場所は初代の羽黒山が優勝、23年5月場所は江戸っ子横綱と呼ばれた東富士が優勝している。相撲史に残る出来事としては、22年6月場所で、羽黒山と大関の前田山、東富士、平幕の力道山の4人による初めての優勝決定戦が行われていることだ。力道山はあのプロレスラーになった彼である。

ちょうど今、大相撲名古屋場所が半年振りで行われているが、テレビで見ると、平日は観衆がまばらで、半分近くの日もあるようだ。が、戦後の明治神宮場所は晴天のみの興行だから、雨天の時は興行できず興行的には大変な時代であった。僕は神宮場所は見ていないが昭和19年、やはり会場難から今の後楽園ドーム(野球所)で行われた場所をみているが、戦中から戦後にかけては、大相撲も受難の時代であった。

        釜石艦砲射撃と「BC級戦争犯罪」

2011-07-15 05:46:56 | Weblog
岩手県三陸海岸にある釜石市は、明治大津波(明治29年)昭和大津波(昭和8年)をはじめチリ大津波(昭和35年)まで過去何回も津波の被害を受けている。従って、その防災対策も進んでいて、港にはギネス・ブックにも掲載されていた世界最深の防波堤(63㍍)まであったが、3月11日の震災では、ほとんど役にたたず破壊されてしまった。それほど今回の津波被害は大きかったが、66年前の連合軍による艦砲射撃による破壊もそれに等しいほどすさまじかった。

敗色こい昭和20年7月14日と8月9日の二回、釜石市は沖合いに停泊中の連合艦隊のものすごい艦砲射撃にあい、目標とされた製鉄所だけでなく、市街まで壊滅的な被害を受け、千人近くの市民が犠牲になったが、この中には製鉄所で強制労働に従事していた連合軍の捕虜約50人もいた。

2000年の日蘭国交400年の記念事業の一環として、僕は戦争中、南方から日本に連行されオランダ軍兵士のことを調べていて、この釜石で亡くなった捕虜の大半はオランダ人であることを知った。そして、驚いたことには当時釜石捕虜収容所の所長だった稲木誠中尉が、戦後の横浜BC級裁判で、捕虜の管理が悪く死傷させた責任を問われ、巣鴨プリズンに5年も収容されていたことも知った。

稲木中尉は広島文理大(現在の広島大学)出身の学徒兵で、当時では考えられない心の優しい人だった。稲木氏の自伝「茨の冠」(ペンネーム中山喜代平、時事通信社、昭和51年)によると、戦争中のあの時代に捕虜にクリスマスを祝うことを許可したり、海水浴まで許している。捕虜たちが収容所で回し読みしていた「風と共に去りぬ」が稲木夫人の手元に残っていてオランダ側に寄贈した。

地震津波は自然災害だが、戦争は人災である。稲木氏の自伝を読んで、僕は改めて戦争の不条理さを再認識させられた。

        突然の”ゲリラ停電”に襲われた40分

2011-07-14 05:52:02 | Weblog
気象庁が熱中症対策の一環として「高温注意情報」を発表した昨日、わが家は予告もなしに突然の停電に襲われた。日中で最も気温が上る午後3時過ぎ、僕は老妻とお盆の墓参りから帰宅して、まずはエアコンとスイッチを押したが機能しない。瞬間、僕の頭に浮かんだのは電力使用量が、暑さで急増してパンクしてしまったのかーということだった。でも、それにしても電力予報は、かなり余裕があったはずなのにだと思ったりした。

部屋は閉め切っていたので蒸し風呂状態。二人はお互いにいたわりあって熱中症予防にと冷蔵庫の水を飲んだが、停電であまり冷えていない。電話もパソコンも動いていない。テレビも見れないので、停電がどうして起きたのか判らない。二人は、なかば、あきらめの心境でシャワーを浴び、窓から風をいれてごろりと横になった。

3時40分すぎ電気がつぃたが、テレビもパソコンも停電については何もふれていない。近くに住む友人に電話を入れたが停電はなかったという。情報がはっきりしないのは不安である。東京電力のカスタマーズ・センターに問い合わせてみたら、停電は目黒区のわが町の一丁目と二丁目それに隣町だけだった。停電の理由は不明で、明日にならないと判明しないという。まるで特定の地区を突然狙いうちした”ゲリラ停電”である。

夕方、菅総理が「原発のない社会実現」などと例によって具体性にかける「お題目」を述べていたが、その中で”今夏も来るべき冬も電力受給は大丈夫だ”と保証していた。本当に大丈夫なのだろうか。局地的な停電とはいえ、40分も突然の停電に見舞われたばかりである。今回の地震も津波は想定外であった。企業の節電や国民の努力で、今はなんとか電力受給は順調に行きそうなのに、総理はこれをまるで自分の手柄のように語る。国民の輪の外にある総理は一日も早く辞任してもらいたい。どんなことを言っても誰も信用しない。

         伊能忠敬の師弟愛と老後の生きざま

2011-07-13 06:01:38 | Weblog
浅草の寺町の一角にあるわが家の菩提寺、源空寺にお盆の墓参りに老妻と墓参りに出かけた。東京は梅雨明けを待っていたかのように、このところ連日の猛暑である。80歳と78歳の二人にとっては厳しい暑さである。寺町は上野と浅草の中間で、今の住所は台東区東上野だが、戦前は浅草区清島町と呼ばれた。明暦3年(1657年)の”振袖火事”で江戸が灰燼に帰したさい、幕府の命令で湯島からの地に移ってきた。

ご先祖のお墓の近くに、わが国最初の実測地図を作成した伊能忠敬のお墓が,師、高橋至時(号名、東岡)の隣に並んである。伊能忠敬は元々千葉県の九十九里浜の酒造家だったが、五十歳をすぎてから家督を子供に譲り、一年発起して若いときから関心のあった天文学を学んだ。その師が高橋至時であった。時に忠敬51歳、至時32歳であった。後年、忠敬は実測地図を作成し、その名も知られるようになったが、今自分があるのは、師、至時のお陰であると、遺言に自分の骨を至時の隣に埋めて欲しいと書いた。この話は美しい師弟愛として戦前の終身の教科書にも紹介されており、僕もこれを学んだ。

伊能忠敬、高橋至時お二人のお墓に手を合わせて、僕は改めて忠敬の生きざまに共感した。忠敬が生きた江戸時代は。封建社会であり、今のように自分の好きなように学問も出来なかった。たまたま忠敬は経済的に恵まれていたとはいえ、人生50歳の時代である。ご隠居が新しい学問に挑戦するといことは大変なことだったと思う。

超高齢化時代である。大方のサラリーマンは60歳で定年を迎え年金生活にはいるが、日本人の平均寿命は80歳近くまで伸び、20年間の余生はある。忠敬の一生を調べると、忠敬が「大日本沿岸輿地図」作成のため旅に出たのは55歳で、それから17年かけて73歳で完成している。今の時代にあてはめてみても、ものすごい老人パワーだ。世の老人たちもがんばりましょう。

          東京は「新」のお盆の季節だが

2011-07-12 06:02:17 | Weblog
浅草にあるわが家の菩提寺からお盆の通知がきた。7月12,13の二日間本堂でお回向があり、小塔婆を差し上げますという葉書である。3月11日の大震災以来、被災したわけでもないのに、なんとはなく落ち着かない。でも季節はいつか移り変わり、東京では本格的な夏を告げるお盆の季節になっていた。

東京23区ではお盆は7月15日前後に行われる。明治維新のあと新政府は新暦を採用するに当たって、政府の膝元である東京では率先して新暦でお盆をすることを決めた。東京以外はほとんど昔どおり旧暦により8月15日前後に行われている。このため東京人は7月のお盆は「新」と呼び、8月のお盆は「旧」とか「月遅れ」のお盆と呼んでいる。

だが、ここ数十年来、東京ではお盆の行事が廃れて来ている。僕の記憶では戦前東京ではどこの家でも麻幹(オガラ)を買ってきてお盆の迎え火をたき、家の前にはナスやキュウリで作った”おしょろ様”(お精霊様)を飾った。そして仏壇にはお盆提灯を燈し、季節の果物やお菓子を飾って、ご先祖さまの霊を迎えたものだった。わが家でも昭和40年代、僕の二度にわたる地方転勤までは行ってきた。

昭和56年、長い地方の転勤から帰京すると、東京はあらゆる面で様変わりし、伝統行事がなくなってきていた。昔からの旧家でさえ、お盆がきても迎え火はたかないし、お盆提灯も飾らない。だいたいオガラを売っている店がない。僅かにお盆用の干菓子が売っているだけだ。これは時代の移り変わりなのだろうか。それとも東京だけの特異現象なのだろうかー。