「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

百歳の先輩の長寿の秘訣

2014-04-10 07:10:47 | Weblog
大正3年3月27日生まれの先輩Iさんとても元気だった。百歳の人生の金字塔を建てたためか、静かな中に、いっそう意気軒昂なものを感じた。その昔人生は、50年といわれたがIさんは、その倍を生きてこられてきている。ご子息夫妻の車でホテルまで僕らを迎えてくれたIさんは杖もついていない。舘山市内の地元の人たちが行く小さな寿司屋さんで、地種のお寿司をご馳走になったが、百歳とは思えぬ健啖ぶりで、聞けば僕と同じ「介護1」で、週に2回ディサービスの世話になっているだけとのことだ。

10年一昔というが、Iさんが生まれた10昔前はどんな世界だったのか調べてみた。この年第一次世界大戦が勃発し、わが国もドイツに宣戦布告している。国内では桜島が大噴火して大きな被害が出ている。”汽笛一斉新橋”だった鉄道が東京までのび東京駅が完成している。(写真)国民的な唱歌「故郷」が発表になったのもこの年だ。

Iさんは先の戦争では給水部隊の一兵卒として中国戦線からマレーシンガポール上陸作戦に参加、さらに豪北のアラフラ海の孤島で3年間もジャングルの中で飢えと戦いながら防人をしていた。戦後は戦争中の体験から、南方から留学生を招き、国際親善の仕事につき、一方では亡くなった戦友を祀る靖国神社の奉賛会の会員で春秋の例祭には必ず参詣している。

先輩は身体的には必ずしも強壮な人ではない。昨年99歳の時、若い時かかった結核が再発して入院もしている。が、かえって一病息災がよいのかもしれない。長寿の秘訣について尋ねたら、先輩は自主出版された俳句誌「流水のこころ」をくれた。その中の句を紹介させていただく。
□ 諦めし朝顔の芽いでにけり
□ 春埃り潮騒つづく段葛
□ 生きること巨木たのしむ黄葉紅葉

ギンギンギラギラ 夕日が沈む ギンギンギラギラ陽が沈む

2014-04-09 16:59:39 | Weblog
すこし大げさにいえば、80余歳にして始めて太陽が西の水平線の向こうに沈む姿を観察した。大先輩Iさんの百歳の誕生日祝いで昨夜一泊した舘山市飯岡海岸のホテルは「夕日海岸ホテル」といい夕日を観光の売り物にしていた。人生の落陽に差し掛かった僕ら老夫婦二人は、海に面したホテルのロビ―に座り、真っ赤な太陽が西の海に沈んでゆく姿を、じっと約30分み続けた。来年結婚60年、ダイヤモンド婚を迎える二人だが、来し方を振り返り感無量なものがあった。

二人とも童謡「夕日ゆうひ」を子供の時歌った昭和1ケタ初期世代である
           「夕日ゆうひ」(葛原しげる作詩 室崎琴月作曲)
            ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら陽が沈む
            まかっかまかっか空の雲 みんなのお顔もまかっかか
            ぎんぎんぎらぎら陽が沈む

南房総への旅と橘丸事件

2014-04-08 06:00:03 | Weblog
南房総市に住む先輩I氏の百歳の誕生日のお祝いに老妻と一緒に出掛ける。東京駅前から高速バスに乗り、アクアラインで東京湾を横切り、さらに高速道路を乗り継いで95分の旅だ。便利で早くなったものだ。戦前は両国駅からSLで、ゴトごゴトとトンネルを抜け舘山までは3時間ぐらいかかった。夏休みには、海水浴客用に芝浦港から舘山まで、普段は大島通いの船が特別に仕立てられ就航した。これだと4時間は要した。

僕もひと夏、たしか菊丸という船で両親に連れられて乗船したが、舘山には港がなく、沖合から小さな艀に乗って上陸した。当時就航船の中には「東京湾の女王」と呼ばれた橘丸(1,722トン)があった。流線型の船体が人気を呼んだが、、昭和13年、陸軍に徴発されて病院船に改造された。中国戦線からの傷病兵を本土に運ぶのに活躍していたが、戦争の激化とともに南方へも就航した。

戦争の末期、橘丸は南方の豪北地域から兵員の運搬船に使用されていた。戦争の激化で艦船の消耗が激しく病院船まで使用せざるを得なかった。これは国際法に違反するため、苦肉の策として兵隊に全員白衣を着せ、傷病兵に仕立てた。しかし20年8月初め、米国の駆逐艦に発見され艦船ごと拿捕された。兵員は豪北のケイ諸島に駐屯していた第五師団の歩兵連隊1200名で、ジャワに運ぶ途中であった。この責任をとって、敗戦の日の15日、第五師団長の山田清一中将と浜島巌郎参謀長の二人が自害している。

先輩I氏も当時第五師団の給水部隊の兵士で、ケイ諸島近くのセラム島にいて餓えと戦っていた。昨年暮病死した学友のY君も東チモールから傷病兵にさせれ橘丸でスラバヤまで運ばれた一人であった。現在、就航している橘丸は三代目で、運よく戦争に生き残った先代は、戦後も活躍していたが、廃船となりスクラップ化されたと聞いている。

気になる血液検査の結果と”健康”の基準

2014-04-07 06:00:49 | Weblog
”健康”体だかどうかの基準の一つは血液検査の結果のようだ。数年前までかかっていた医者は1か月に1度は採血していた。しかし、その結果が出ても僕には詳しく教えなかった。教えても理解できないと思ったのかもしれないが。しかし、高齢になると、素人は素人なりに採血結果に関心が出てくるものだ。最近の新聞で、僕は二つの記事にとくに関心をもった

一つは日本人間ドック学会などで血液検査による”健康”基準の範囲を広げる動きがあることだ。例として従来、中性脂肪の健康基準値(男性)は30~149mg/dlだったが、179mg/dlまで健康とみなすとあった。今、僕の中性脂肪値は110mg/dlだから問題はないのだが、若い時は200mg/dlを超すこともあった。

もう一つは日本血液学会がHbAIC値を従来の日本基準値(JPS)=4.3~5.8=を国際基準値(NGSP)=4.6~6.2=に統一することになったというニュースだ。僕はこの10年来、HBAIC値が時々6を超えることがあり、糖尿病予備軍とされ、膀胱ガンと関係があるとされ欧米では禁止されている薬を投薬され、事実膀胱ガンが再発したことがあった。それだけHbAIC値には関心がある。昨年暮、膝の人工関節置換手術の際、僕の血糖値では手術に問題があるとのことで、手術に先立ち1週間、入院インシュリン注射で血糖値をさげた。

今かかっている内科医は僕のHaAIC値が常時6以下なので糖尿病ではないと診断している。しかし食後の血糖値が150を超すので、それに対応した薬は出している。素人で判断してはいけないが、日本の場合、医療ばかりではない。すべてに基準、規制値が高すぎるのではないのだろうか。それが医療費の高騰に影響していなければよいのだが。

都会のブリーダーの無作法なマナー

2014-04-06 06:41:05 | Weblog
毎日膝の機能のリハビリのため杖をつき出来るだけ歩くようにしている。歩道のない狭い脇道では、対抗の車がくれば一時立ちどまるほど注意している。昨日も近くのミニ.スーパへ買物へ行き、角を曲がろうとしたら、犬を4匹連れたブリーダーが小用をたせている。吼えられるのがイヤなので、車道へ出たらブリ―ダーから”おじいさん、危ない車がきている”と怒鳴られた。後から来ている車は僕の行動をみていてストップしてくれていた。最近、わが町では、こういったブリーダーが増えてきているが、他所ではどうなのだろうか。

愛犬ブームである。近くの駒沢五輪公園に「ドッグラン」施設があるせいか、わが町はとくに愛犬連れが多い。一時に比べれば、だいぶマナーがよくなってきたが、それでも家の横の電信柱には時々フンが残っている。この愛犬連れに混じって、最近、小型犬だが、綱に3匹から5匹結んで散歩している姿が目立つようになった。一応、フンの処理用の袋は持っているようだが、小便させても水を流していない。何匹も連れているのだから不潔きわまりない。

僕は犬は嫌いではないが、最近の愛犬ブームは度を越しているように見える。徳川五代将軍綱吉の頃"生類憐みの令”で、極端にお犬様が大切にされた時代があったそうだ。川時代、江戸の名物は”火事に喧嘩に犬の糞”と言われたほど、街中に犬の糞があったとのこと。ブリーダーに対して取締法はあるのかどうか。野中の一軒家ならいざ知らず、東京の高級住宅街で、犬を繁殖させ、運動代わりに街中を散歩させられては、たまったものではない。

偕老でありたい老後

2014-04-05 06:33:22 | Weblog
春は出会いと別れの季節というが、80歳を過ぎると新しい出会いはほとんどなく別れだけが多い。また旧友の訃報である。今年になって二人目である。40年前、北海道で一緒に新会社設立時に苦労した仲である。昨日、老妻と共に横浜山手教会の「葬儀ミサ」に列席した。折から満開の桜が一部散りはじめ花吹雪の中の、彼の一生らしい立派な葬儀であった。

偶然なのだが、2月亡くなったクラスメートも昨日の葬儀の友人も2年前に伴侶に先立たれている。すべての人がそうではないが、男は伴侶に先立たれると弱いようだ。生活に張りがなくなるからであろうか、将来への希望を失ったっかであろうか、まるで後を追うように亡くなるケースが多い。

「偕老同穴」という言葉がある。共に暮らし老い、死んだ後も同じ墓穴に埋葬して貰いたいという夫婦の願望である。「詩経」から出た言葉だそうだが、同じような意味で能楽の「高砂」もある。俗謡にも”おまえ百まで、わしや九十九まで、共に白髪が生えるまで”というのもある。「おまえ」は古い敬語で”あなたさま”、つまり、夫人から見た御主人の事である。お互いの長寿を願うと共に、伴侶の死を1年後としているのが面白い。

ネットを渉猟していたら外国でも同じケースがある。昨年米国のオハイオ州で89歳の妻が結婚65周年記念日に急死したら、その11時間後に91歳の夫が後を追うように病死したケースが紹介されていいた。やはり、夫婦の間には目に見えない、固い絆があるのかもしれない。長寿で偕老を望むなら、お互いに、いたわりあって生きなければいけない。

昭憲皇太后崩御百年と小学唱歌「金剛石」

2014-04-04 06:04:42 | Weblog

天皇皇后両陛下が明治天皇の皇后、昭憲皇太后崩御百年に当たり明治神宮に参拝され、境内にある明治文化館宝物展示室で開催中の記念展をご覧になったと新聞に出ていた。昔の言葉でいうと”懼れ多い”が、僕は最近、すっかり昭憲皇太后のお名前を忘れていたが、戦前生まれの日本人にとって皇太后は尋常小学校の音楽教科書「金剛石」を通じて、よく存じ上げていた。
            ▽ 金剛石(昭憲皇太后作詞 奥好美作曲)
              金剛石もみがかずば 珠のひかりのそばざらむ
              人も学びて後にこそ まことの徳にあらはられ
金剛石(ダイヤモンド)も磨かなければ光は出ない。人も同じで学ばなければ本当の徳は出てこない、といった意味である。

昭憲皇太后は歌人として生涯に3万首をお詠みになった。金剛石のほかにも学校で教わったが今は”懼れ多く”も忘れてしまった。明治維新期の皇后で、教育にとくに力をいれられ、女性華族の学校「女子学習院」も創設された。金剛石の歌は今でも女子学習院で歌われていると、ネットにあった。その昭憲皇太后の徳を偲び、ご生涯を紹介する展示会が5月28日まで明治文化館で開催されている。入場料500円。

明治神宮を参拝することは多いのだが、なかなか祭神である明治天皇、昭憲皇太后のご生涯の時代、”明治の御代”に接する機会は少ない。今回の展示会はよいチャンスだ。併せて外苑にある絵画館にも足をのばしてみたいと思っている。絵画館には明治時代を紹介する日本画、洋画100点が展示されている。戦時中は何回か出かけたが、考えると戦後出かけた記憶がない。意外と東京に住んでいても見学した人は少ないのではないだろうかー。

77年前の校門の桜 3人だけの同窓会

2014-04-03 06:37:39 | Weblog
昭和12年4月1日、桜満開の校門をくぐり、6年間学び舎を共にした級友二人と昨日、学校のあった想い出の地で会い、ささやかに食事をしながら、お互いの長寿を祝った。77年の歳月の経過は、あっという間であった。亡父は、僕が小学校に入学した、この日の事を日記にこう記している。
「静かに4月の朝が来た。今日こそ愛児が新生活への第一歩、小学校へ入学するのである。愛児の幸福を祈願し氏神へ参拝すると、鳥居の前の桜は満開である」ー亡父は遅い子持ちで、この時44歳であった、それだけに僕への期待は大きく、嬉しかったのであろう。

日支事変が始まったのは、この年の7月7日である。従って入学時には大陸の戦火はまだ拡大していなかった。僕らの学校生活の中で、この4月から7月までの僅か3か月が「平和」の時期であった。思い出すと、当時最大の話題は朝日新聞の「神風号」(九七式偵察機)が立川飛行場からロンドンに向け飛行し、97時間17分56秒の世界記録を樹立したということであった。

僕らは入学して間もなくの5月、洗足池へ遠足に出かけた。その時の集合写真が残っているが、昨日会った僕ら二人を含め級友52人がニコニコと笑って写真に収まっている。しかし、昭和20年4月15日の空襲で学校や家も焼け、戦後はバラバラに離散してしまった。今は戦後の学校統合で校名までなくなってしまった。僕ら3人は昨日、昔学校があった跡地を訪れたが、高層のビルに変り、校門の桜は伐採され、消えてなくなっていた。77年の歳月である。

「花子とアン」と銃後の小国民

2014-04-02 06:23:32 | Weblog
NHKの新しい朝の連続ドラマ「花子とアン」が始まった。初日の関東地区の視聴率は21.8%となかなか出足がよいようだ。ドラマは昭和の初期,カナダ人作家モントゴメリーの小説「赤毛のアン」などの翻訳家として知られる村岡花子さんの半生を扱ったものだが、戦時中”銃後の小国民”だった昭和1ケタ世代には、村岡さんはNHKラジオの「子どもの時間」(のちに「小国民の時間」)のおばさんとしてのほうが有名だ。

村岡さんは、まだラジオの創生期であった昭和7年から17年まで10年間も夕方放送されていた「子どもの時間」に出演、子供向けに易しくニュースを放送していた。ラジオが唯一のニュース源であり娯楽であった当時である。その時代の子供たちはみな、村岡花子さんの名前を知っていた。とくに番組の最後に村岡さんンがいう”さようなら、ごきげんよう”という独特のアクセントの言葉は今でも覚えている人が多い。

村岡花子さんは明治26年6月、甲府の生まれ。ドラマは今幼児期から教育熱心な父親の影響をうけて上京するまでをやっているが、その後彼女は東京の品川の城南小学校を卒業、ミッション.スクールに入学、英語をマスターし翻訳家としての道を進むのだが、たまたま僕の亡母が村岡さんと同年生まれだけに明治のこの時代の女性の考え方がよく解かるし、母も同じ品川の小学校を卒業しており親近感がある。

「小国民の時間」のテーマ音楽は、当時占領下にあった、南方(マレー、インドネシア)の民謡「ノナ.マニス」と「ラササヤ」を編曲したものであったことを後年知った。村岡花子さんの当時の「小国民の時間」のお声が残っていたら、ドラマのどこかで「ノナ.マニス」「ラササヤ」のテーマ音楽とともに聴きたいものである。

包括支援センターの情報のあり方

2014-04-01 06:20:17 | Weblog
先日参加した老人会の誕生会に地域の包括支援センターから若い男女の職員が来てお年寄り向けに”振り込め詐欺”防止について寸劇をまじえて色々有益な話をした。”振り込め詐欺”は絶対にあわないと豪語する人ほどかかりやすいそうだが、手口は最近巧妙になってきて、僕もうっかりすれば騙されるかもしれない。参考になった。

職員たちの説明の中に「緊急医療情報キット」があった。独り暮らしの高齢者が家で突然倒れた場合、このキットがあれば、駆けつけた消防隊員や医療関係者にとって便利で重要だ。キットは円筒形をしていて、中に個人の病歴や医療情報が入っている。これを見れば緊急な措置が取りやすい。キットは誰でもがすぐ発見できるように家庭の冷蔵庫の中に入れて置くように指示されている。

地域包括支援センターは2005年の介護保険法改正で出来た施設だが、出来て10年近く経っているのにあまり”地域”に馴染んでいない。昨年暮、膝の人工関節置換手術で、介護1の認定を受けるまで、僕は支援センターについて、よく知らなかった。介護の認定も娘の勧めで受領出来た。老人の中でもまだ支援センターが何をやっている役所なのか知らない者が多いような気がする。

老人会での支援センターの貴重な話も誕生日会に参加しなければ僕も知らなかった。老人会に参加できるのは健康なお年寄りばかりである。実際に介護や支援が必要な老人は出てこれない。僕の周囲にも老人会などの社会参加せず、独り暮らしの老人が沢山いる。中には僕より介護や支援が必用と思われる知人もいる。いまだに高齢者の孤独死が問題になっている。一生懸命やっていると思うのだが、何か支援センターの情報伝達の方法に問題があるように思うのだが。