「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

広島土砂崩れは天災ではなく人災?

2014-08-21 06:33:54 | Weblog
広島市内の土砂崩れの現場を上空からのテレビ画面でみて、これは天災ではなく人災でないかと感じたのは僕だけではないと思う。急勾配な山肌に幾筋もの土砂崩れの跡が見られ、その直下に人家がなぎ倒されている。この痛ましい写真の構図は、つい最近でも信州の南木曽町、伊豆大島町で発生した土砂崩れ現場のものと全く同じでる。

被害が大きかった安佐南区は広島市で人口が最も多く、中心部から数キロの距離にあるが、山が迫っていて昔は人口は少なかった。しかし今世紀に入ってから、新都市交通機関のアトラムインが開通して急速に発展した。アトラムインのほとんどの駅は阿佐南区内にあるよいうが、開発に当たって乱開発などがあったのではないだろうか。日本の国土は約7割が山林であり、安佐南区はまさにその縮図みたいである。

土砂崩れの原因について、専門家は短時間の集中豪雨と地元の土質がももろい花崗岩だったことを上げる。もちろん、直接の原因はそうだと思うが、もう一つ、日本全体が抱えている森林破壊が原因があるのではないだろうか。戦後外国からの安い輸入材が入ってきて、日本の森林は間伐などの手入れがおろそかになり、荒れ放題になっている。このため森林の保水能力が極端に落ちてきており、ちょっとした雨でも出水する状態だという。

テレビの画面をみると、皮肉なことに破壊された人家のほとんどが輸入材で造られている。荒れている森林を手入れし造林しておけば、こんな悲劇は起きなかっただろうに残念である。評判の悪かった民主党政権は、マニュアルに森林事業再生法を掲げ、閣議決定している。自民党政権になってこれが実施に移されたのかどうか寡聞にして知らないが、森林破壊は党派を超えた国全体の緊急の課題である。

敗戦直後進駐軍の性の防波堤 RAA

2014-08-20 05:24:02 | Weblog
昭和20年8月15日の敗戦の日から最初の公休日(日曜)であるの亡父の19日の日記はこう書いてある。「外見的にはまだ世相に変化はないが、自分の気分には相当違ったものがある。すでに防空頭巾と巻きゲートルは廃止して防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。街頭人の服装も国防色は次第に減りつつある。ただ困った困るのは無知市民のつまらぬデマ流布である」。僕はまだ子供(中学3年)だったが、遠い記憶の中に”進駐軍がやってくると、男は奴隷にされ、若い女は強姦される”といった類の話が巷に流れていたのを覚えている。

この日、発足したばかりの内閣の東久爾稔彦首相は昭和天皇に召され”街を明るく娯楽を復興せよ”といったお言葉を頂き、国の再建復興に向かってリセット態勢に入った。しかし、後年知ったのだが、内務省は早くも18日、進駐軍の進駐に備え。各県知事警察に対して、日本の女性を進駐軍の性暴力から守るよう対策を指示、26日には、内務省令で「特殊慰安施設」RAA(Recreation and Amusement Association)を作るよう命令している。東京では28日、大森海岸の料亭「小町園」が第一位号店に指定された。

RAAは全国各地に設けられ、従業員は新聞広告を通じて一般から募集され、21年廃止になるまで進駐軍向け慰安所として存在した。従業員は主として戦前の公娼が多かったが、広告の意味が解らず応募して自殺した女性もあった。その数は全国で5万人といわれ、進駐軍の性暴力からの”防波堤”だったといわれているが、それにも拘わらず、進駐軍の性犯罪は多く、各地で被害が出ていたが、占領下のため新聞には掲載されず、一般には知られなかった。

亡父は日記で”デマ”と簡単に片づけていたが、庶民は政府のRAA設置の動きをキャッチしていたのであろう。戦争が終わって1か月足らずでRAAが発足していたのを改めて知り、戦争と性の問題を考えさせられた。

法王と韓国”従軍慰安婦”と日本のカトリック教徒

2014-08-19 05:03:11 | Weblog
昨日ソウルのカトリック聖堂で催された”平和と和解”を祈願するミサで、来韓中のフランシス法王が、朴菫恵大統領と共に列席していた、いわゆる韓国の”従軍慰安婦”6人を祝福しているのをテレビの画面でみた。宗教者として、法王がかっての”醜業者”に祝福したのにケチをつけるのではない。問題は”平和と和解のため”と言いながら、結果的には、一方の国に組するような行動をとった法王の国際感覚である。韓国にとっては、法王がミサで”従軍慰安婦”と会い、祝福しているテレビ画面は、ありもしない、日本の”性奴隷”制度を世界に喧伝する絶好の場になってしまった。法王はこれをご存知なのだろうかー。

いわゆる”従軍慰安婦”問題について僕は、カトリック教会が偏見と誤解をもっているように思えてならない。2000年12月、東京の九段会館で開催された「女性国際戦犯法廷」に反対して僕は連日抗議デモに参加したが、主催団体が配布したビラを見ると、性奴隷制度で昭和天皇を糾弾、有罪判決を言い渡した、この裁判を支持する協賛団体に「カトリック正義と平和協議会」をはじめ、日本各地の修道会が数多く名を連ねている。

この模擬法廷を主宰したのは、朝日新聞OGの松井やより氏(故人)やNHK子会社の現役プロジューサーで、朝日新聞は模擬法廷なのに連日、法廷の模様を報道、NHKに至ってはETV特番「戦争をどう裁く2001」を組み、一方的にこの裁判ゴッコを放送しようと企み、外部からの指摘で一部手を加え放送されたのはご存知の通りである。

この模擬裁判の直後だったと思うが、僕はインドネシアに旅行する機会があって、ジャカルタのホテルで現地の新聞「Kompas」を見て驚いた。ほとんど全面使って、東京の「女性国際戦犯法廷」の判決文全文をそのまま掲載していた。「Kompas」はインドネシア最大の発行部数数を持ち、かって僕が駐在していた当時は、カトリックの華僑が経営していた。「Kompas」は、その後もジャカルタ日本大使館への、慰安婦デモの模様を大きく扱っていた。

こんな一連の動きを見て、僕はカトリック教会には韓国のカトリック教会を通じて発進された情報をそのまま自国の信徒に流布する傾向があるよう見えてならない。

軍人出身大使から日本留学体験の大使へ インドネシアこの半世紀

2014-08-18 06:01:45 | Weblog
昨日在京のインドネシア大使館で催された69回独立式典に参加して、つくづくこの半世紀の日イ関係の推移を感じた。僕は1966年から67年にかけて新聞社の特派員としてジャカルタに勤務した。ちょうどスカルノ(初代大統領)からスハルト(第二代)への移行期であったが、当時さかんに45年世代、66年世代という言葉が使われいた。今では45年世代は、独立実現と社会改革を進めた世代、66年世代は、経済の発展と社会安定を達成した世代と定義されているようだが、当時45年世代はどちらかというと、スカルノで代表される、古い分からず屋というう意味合いもあった。

この半世紀、少し乱暴の言い方だが、インドネシアの政治はユドヨノ現大統領まで66年世代が動かしてきた。スハルト大統領もユドヨノ大統領軍人出身者であり、ハビビ、ワヒド、メガワティにしても世代的には66年世代であった。しかし、この66年世代も交替期にきているようだ。それが先日行われた大統領選挙で、軍人出身のブラボゥオ候補が、庶民派といわれるジョコ・ウイドド候補に敗れたことだ。ジョコ次期大統領は、軍人出身ではなく、独立に深くかかわった政治家一族でもない。ブンガワン・ソロの歌で知られるスラカルタ市長を経てジャカルタ特別州の市長である。

独立式典を主宰したユスロン大使は、今年2月赴任した方だが、筑波大学に留学、博士号をお持ちなっており、当然日本語も流暢である、お見受けしたところ若く、66年世代ではない。インドネシアと国交が樹立されて今年で56年だが、当初、インドネシアの大使といえば,軍の参謀総長を経験者したバンバン・スゲン将軍ら歴代軍人出身者であった。しかし、ここ10年以上は」経済に明るいエリート官僚が続いている。ジョコ新大統領の下、新しい日イ時代に入る。それだけにユスロン大使への期待も大きい。

69回目のインドネシア独立式典 福田元総理も列席

2014-08-17 05:25:32 | Weblog
東京のインドネシア大使館の大使公邸で催された69回目の独立式典に参加した。早朝8時からの式典は昭和20年8月17日午前10時からジャカルタのスカルノ大統領(初代大統領)私邸前で行われた独立宣言当日の模様をそのまま模して行われる。早朝8時という時間も、2時間という時差を配慮してのものである。今年で9回、僕はこの式典に参加しているが、年々独立当時を知る日本人が減り、ついに今年は従軍世代は1人もいなかった。

早朝の式典にも拘らず、福田康夫元総理が式典に参加した。福田康夫元総理の父親、赳夫元総理は1972年マニラで、わが国の東南アジア外交政策として「福田ドクトリン」を提唱した。その柱は”心から心へ”(Dari hati ke hati)で、お互いの信頼関係の上に立って対等な立場で、地域の平和と繁栄に寄与しようというものである。”dari hati ke hati"は、今でもインドネシアでは、五輪真弓の「心の友」と共によく知られている言葉だ。

前田精将軍を知らなかった国際交流基金理事長

2014-08-16 05:30:28 | Weblog
知人から国際交流基金理事長、安藤裕康氏が日経新聞夕刊に書いた「明日の話題 残留日本兵」という記事を頂戴した。理事長はこの記事の中で、インドネシアの高校生から前田精将軍について質問されたが、恥ずかしながら自分は知らなかったと書いている。理事長は外務省の出身だが、経歴を見ると中近東アフリカ局長やイタリア大使を経験されており、インドネシアに専門家ではない。しかし、交流基金は今年4月から「アジアセンター」を設けるなどアジアに重点を置いている、そのトップの発言としては心もとない。

前田精少将はさきの大戦中、ジャカルタにあった海軍武官府(陸軍との連絡事務所)の長だった人物で、昭和20年8月17日のインドネシア独立の際、自宅公邸をスカルノ、ハッタ(のちの大統領、副大統領)らのために提供、ここで独立宣言が起草されている。また日本の敗戦という混乱の時期にも拘らず、独立に慎重だった陸軍との調整に努めた。後年、インドネシア政府は前田将軍に、最高の勲章「建国功労賞」を授与している。前田将軍の事はインドネシアの教科書にも出ている。

古い話を持ち出して恐縮だが、1992年3月、日本軍のジャワ”侵攻”50周年を記念して、当時ジャカルタの日本大使館の専門委員だったI・Kさん(女性)や後にインドネシア政府から追放処分を受けた日本の通信社記者らが中心となってジャカルタでシンポジュームを開いた。この資金は国際交流基金から出ている。シンポジュームは当初公開で行われる予定であったが、駐ジャカルタ日本大使館が、その内容や講師などから判断して非公開に変更させた。シンポジュームの目的は戦争中の日本軍政についての一方的な批判であった。

今、僕の知り合いの若いインドネシア研究グループがジャカルタの独立式典に参加したあと、カリジャテイの歴史博物館と日本兵慰霊碑を参拝している。カリジャテイは緒戦時、ジャワに上陸した日本軍の前に蘭印軍が僅か数日で敗走、この地で蘭印総督と司令官が降伏文書に調印している。。このことはインドネシア教科書にも明記されているが、何故か現地の日本大使館は、戦友会の要請にもかかわらず、インドネシア空軍が管理しる慰霊碑参拝に訪れたことがない。まさかカリジャティが日本帝国主義の侵略の拠点とでも思っているのであろうか。すべて、きちんとした史実に基づく歴史検証が必用である。安藤理事長は、原稿の中で戦後インドネシアの残留した日本兵が1万人に及ぶというある本を引用して書いているが、ジャカルタの残留者組織「福祉友の会」の文書によれば、「帰らなかった日本兵」は903人である。念のため。

電休日 自宅防空壕で”玉音”を聞いた日

2014-08-15 05:05:43 | Weblog
69回目の終戦記念日である。昭和20年8月15日正午、僕は母親と一緒に家の前に掘られた、ちゃちな防空壕で、天皇陛下の敗戦を告げる”玉音”放送をを聞いた。この日は木曜日だったが、僕は勤労動員先の軍需工場が電休日のため家にいた。戦争末期、電力不足から、日曜日以外に平日もう一日休みの工場が多かった。暑い日だったが、朝9時半から東京では警戒警報が発令されていたため、僕らは防空壕で”玉音”を聞いた。

わが家は、亡父が当時大東亜省関係の協会で仕事していた関係で、敗戦は既に11日の時点で”不快”なニュースとして知っていた。そのため僕個人は敗戦を知っても驚かず、悲しまず、漠然と”これで明日から工場へ行かずに済む”と思った。しかし、亡父はこの日の日記にに次のように書いている「記憶せよ!この日を!5時半起床、神仏に月例祈願したあと、近所の氷川神社に参拝、ラジオで本日正午より、畏くも天皇陛下御自ら勅語御放送ある旨発表あり恐懼に耐えず、9時半出勤、正午より勅語拝聴式あり、一同最敬礼裡に朗々たる玉音に接し、粛然襟を正し嗚咽各所にに起きる、感無量なり」

玉音は各人それぞれ受け取り方が違っていたようだ。クラスメートで、国鉄(JR)に動員されていた友人の一人は玉音を大宮機関区で聞いたがその時のの模様を、同窓会誌に次のように書いている「直ぐには日本が負けたという感覚にはならなかったが、暫くして日本が負けたのだと理解した。当時居合わせた仲間たちで仕方がないから中国へでも行って馬賊にでもなろうと話し合った」

天皇陛下のお声を一般国民が聞いたのは玉音放送が初めてである。新聞に陛下の写真が掲載されると、神棚に奉戴した時代であった。あれから69年経過し、あの日と同じ暑さの中で戦没者慰霊式典での天皇陛下の御挨拶をテレビで聞いた。感無量なものがある。

癌(がん)との”おつきあい”14年

2014-08-14 05:21:09 | Weblog
80歳をすぎると、身体全部が健康であることはありえないようだ。先日、近所の医院で受けた区のメディカル・チェックの結果を貰った。血液検査による数値はすべてOK、レントゲン検査、心電図も正常、萬万歳なのだが、大腸がん検査でひかかってしまった。前にも同じことがあり、精密検査を受け”無罪放免”されたことがある。大丈夫だとは思うもののイヤなものだ。

早速、昨日近くの国立医療機関に行き、内視鏡などによる精密検査を依頼した。病院には前回の記録が残っており、9年前の2005年9月に検査をしていた。その時の記憶として、僕の大腸が普通の人より、長いらしく検査した女医先生が苦労してことがある。お蔭で僕はかなり長い時間ベッドに横にされていた。それを思うとちょっと憂鬱だがやむを得ない。

日本人の死亡原因の第一位はがん(30・1パーセント)二位心疾患(15・8パーセント]三位肺炎(10・2パーセント)=厚労省2012年=で、依然トップである。70歳をすぎた高齢者の二人に一人はがんの経験者だともいう。僕も70歳だった2000年に膀胱がんと診断され、切除手術で入院している。さらに2008年には同じがんで1月と7月の二回、、また昨年9月にも4回目の手術をしている。

かっては、がんは死に至る病とされ、医者が患者にがんと宣告しない時代もあった。しかし、最近は、僕の周囲でも胃がんが完治して昔通り酒を飲んでいる友人もいる。先日物故した、アンパンマンのやなせたかしさんは病歴を見ると、80歳から90歳にかけて膀胱がんを10回も経験している。医学は日進月歩している。がんと宣告されても心配することはない。上手におつきあいすればよいと自分に言い聞かせている。

「ロコモティブ・シンドローム」をご存知ですか?

2014-08-13 05:10:20 | Weblog
先日、僕の住んでいる東京の区役所の「健康推進課健康係リ」から”健康に関すルアンケート用紙が届いた。その中の設問の一つに”ロコモティブ・シンドロームをご存知ですか”というのがあった。なんとはなく聞いたようではあるが、詳細は知らないので”No”の項に○印をした。早速インターネットで調べてみたら、ウイクぺディアにこう書いてあった。「運動器の障礙により要介護、要支援になるリスクの強い状態」。

昨年暮、僕は左膝人工関節置換手術を受けた後、国から介護1と認定された。手術前、僕は10年以上、ロコモティブ・シンドロームの状態にあったのだが、僕にはその自覚もなく、医療機関からも”ロコモ”という言葉を聞いたことはなかった。僕が初めて膝に痛みを感じたのは、もう10年以上も前の事だ。近所の整形外科医でレントンゲン写真を撮ったところ、左膝半月板の損傷という診断であった。医師の指示に従い、週に二回、マッサージを受け軽いトレニーングを受けた。しかし、一向に回復せず、2年ほどで止めてしまった。

昨年9月、膀胱ガンの切除手術を受け入院中、軽く転倒した。それが引き金になったのか痛みが強くなり、再び別の整形外科病院で治療したり、近くの整骨院でマッサージを受けたが、ついに歩行が困難になった。そこで、周囲の勧告で人工関節のお世話になることになった。

ロコモティブ・シンドロームの最大の原因は「脳卒中」ついで「骨折転倒」三番目が「関節疾患」だそうだ。たしかに自分が罹ってみると、周囲に同病患者が多いのに驚いた。僕の場合、老後の足腰の弱みに備えて60歳代から毎朝、5千歩以上歩き、ラジオ体操に皆勤したりしていたが、結果的にはあまり効果がなかったようだ。ロコモティブ・シンドロームから、寝たきり老人になるケースが多い。しかし、その予防には果たして何をしたらよいのか、具体的な啓発運動が必要だ。

北アルプスが展望できる”終いの棲家”

2014-08-12 05:35:28 | Weblog
71年前の昭和18年、同じ学窓を巣立った国民学校の級友夫人から暑中見舞いをかねて近況を知らせる手紙が届いた。今年の年賀状が届かず消息を心配していたのだが、級友ともども信州の北アルプスの山々が展望できる老人ホームに入居されたとのこと。級友は数年来軽い認知症だったが、足腰も弱って車イスの生活。夫人も今年に入って胃がんと診断され、級友の介護が出来なくなり、思い切って入居を決断したという。

今年になって、この級友夫妻と同じように長年住み慣れた自宅を処分して老人ホームの世話になる友人知人がふえてきた。数年前に御主人を亡くした大正生まれの知人の女性が四百字詰原稿用紙4枚に「終いの棲み家」という題で、老人ホームに入居したエッセーを送ってくれた。独り住まいの彼女が長年家族と一緒に住み慣れた家を手放し、緑で囲まれた今のホームで快適な老後を送っている喜びが書かれてある。

旧友夫人の手紙の終りに”私たちの住まいは、インターネットで検索できます”とあった。早速拝見させて貰ったが、確かにアルプスが展望できる13階の立派な建物で、ホームには医療機関はもちろん、老人用のレクリエーション施設、保育園、地元名産の塩尻ワインが飲める立派なレストランまである。入居費その他から誰でもが入居できるものではないが、東京首都圏では考えられない立派なものだ。

信州生まれの老妻は多少冗談まじりに家を処分して引越ししましょうと言った。たしかに狭い一室で熱中症を気にしながら生活するよりは快適で夢もある。しかし、いざ決断するとなると、もう80歳も半ば近くになった老夫婦には、もうそのエネルギーはない。幸い二人とも介護1の認定は受けてはいるが元気で他人のお世話にならず健康で生活できている。このまま自宅が”終いの棲家”がなればと望んでいるのだが。