「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

日本人の三人に二人は韓国に好感は持っていない

2014-12-23 06:54:41 | Weblog
内閣府で行った世論調査によると、日本人の88.1パーセントが中国に対して”好感がもてない”また韓国に対しても66.7パーセントが嫌いだという。僕が注目したのは、韓国へ好感度が前年比9.2パーセントと急下落したことだ。今や日本人の三人に二人が韓国嫌いという計算だ。おそらく、両国は今、史上最低の関係にあるのではないか。

10年ほど前”韓流ブーム”の時代があった。NHK総合テレビが韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」を放送、これが”火付け役”となって主演俳優の”ヨン様”が、日本女性のアイドルとなり、”韓流ブーム”を引き起こした。”韓流ブーム”は、内閣府調査で見る限り、去ったようだが、今でも民放テレビのBSの昼間の番組は、いぜんとして韓国ドラマのオンパレードである。韓国のTVドラマ専門の雑誌まである。

日本人の韓国への好感度の急落は、僕からみれば、その責任は一方的に韓国側にある。2012年、当時の李明博大統領が、日本の領土である竹島に韓国旗を立てたり、天皇陛下に謝罪要求発言をした。さらに、それにわをかけるような朴菫恵大統領の異常ともいえる”従軍慰安婦”を巡る反日発言である。そして産経新聞ソウル支局長の不法在宅起訴である。

日本の韓国併合は1910年から45年までの35年間だった。当時を体験した韓国人も日本人も少なくなっている。それよりも来年は戦後70年、日本と韓国の戦後の歴史は、日本統治時代の月日が流れている。両国が国交正常化した日韓基本条約が締結した1965年からでも来年は50年、半世紀になる。韓国側からみれば日本統治の35年は耐え難い屈辱だと思うが、戦後70年、わが国は一貫して韓国に対して友好な態度をとっている。一部の指導者によって両国の友好が損なわれているのは不幸なことだ。

冬至 一陽来復を願って柚子湯風呂

2014-12-22 05:42:17 | Weblog
今日12月22日は冬至である。一年で昼間の時間が一番短い。同時に一陽来復、運が向上する日とされている。わが家は今年一年、夫婦が共に入院するなどあまり良い年ではなかった。そこで、言い伝えに従って風邪をひかないよう、カボチャをを食べ、柚子(ゆず)湯に入り,ひたすら一陽来復を願うことにした。

来年、結婚60年、ダイヤモンド婚を迎える夫婦だから日常会話にはことかかない。柚子湯の話からわが家に”お風呂”がいつ入ったかの話になった。昭和30年4月に結婚したが、新婚当時わが家には風呂場がなかった。東京23区内だが、当時まだわが家のあたりは、下水道は完備しておらず、いわんや都市ガスもなかった。老妻の話では翌31年に産まれた長女を連れて近所の銭湯に出かけていたという。

戦争末期から戦後間もなくの時代、都民生活の悩みの一つは入浴であった、燃料不足から公衆浴場が毎日開業しておらず、週何回かの開業日にはそれこそ”芋を洗うような”混雑ぶりであった。亡父と一緒に電車に乗り、多摩川を渡って川崎市の銭湯に出かけたこともあった。こんな時代だから、柚子風呂を楽しむなど生活の余裕はなかった。

狭いながらもわが家には今、ユニットバスの浴槽がある。足もろくそく伸ばせないが、スーパーから買ってきた柚子を二つ浴槽に浮かべ芳香を楽しんだ。老骨の身には厳冬の寒さが身にしみる。一陽来復、春の到来、運気の向上をただただ願うだけである。

東京駅開業100年 日本の鉄道の進歩

2014-12-21 06:27:47 | Weblog
昨日12月20日は東京駅開業100年記念日だった。テレビを見ていたら、これを記念して発売されたIC乗車券「SUICA」を求めに1万人もの人が押し寄せ、駅側は混乱を恐れて突如発売を中止したという。加齢とともに世の中の関心が薄れてきたのであろう。僕にはこの現象が理解できないし、第一、東京に生まれて80余年になるのに「東京駅」に対する想い出も郷愁もあまりない。それは多分、日常あまり勤めなどに利用した駅ではないからであろう。

同じ日の新聞にJR6社が来年3月、大幅なダイヤ改正し、これに伴い寝台特急列車が廃止されることと、新幹線が23年ぶりにスピードアップされ、東京―新大阪間が最速2時間20分で結ばれることに目がひかれた。

僕ら昭和1ケタ世代にとっては特急というと新鉄道唱歌(昭和12年NHK国民歌謡)「帝都をあとに颯爽と 東海道は特急の流線一路富士桜 燕の影も麗らかに」に出てくる特急列車「富士」「桜」「燕」を想い出す。とくに「燕」は当時東京―大阪間を最速8時間20分で結んだ。僕は亡父に連れられてその雄姿を東京駅の何番線かのホームへ見に行った記憶がある。

2045年に東京―大阪間で開業予定のリニア中央新幹線は、最高時速500キロをこえ、僅か67分で結ばれるそうだ。といっても僕はその時代にはこの世にいないが。東京駅100年で改めて、日本の鉄道の急速な進歩に驚く。明治5年、僅か維新から5年しかたっていないのに新橋―横浜間が開業し22年には東海道線が全線開通している。当時の鉄道唱歌「汽笛一斉新橋を早やわが汽車は離れたり」には、なんとはなく旅愁を感じる。すでに今の新幹線でも旅愁などない。旅はスピードだけではない。

東京の歳末 「竹馬の友」二人だけでの忘年会

2014-12-20 06:55:33 | Weblog
昨日、近くに住む70年来の「竹馬の友」から久しぶりに電話があり、昼飯を一緒に食べようと誘いがあった。暮も昔風にいえば”数え日”だ。たまには世間の風にも触れてみたいと思い、駅近くの昼からやっている小料理屋の暖簾をくぐった。二人とも医者からサケを禁じられている身だが、家人には内緒でビール一本だけ頼み、松花堂弁当で、なんとか無事に今年を乗り切れたのを感謝、ささやかに乾杯した。

東京郊外の私鉄沿線の、このあたりは駅前の商店街であっても、今は昔のような歳末風景はない。子供が小さかった昭和30年代頃までは、街頭宣伝のスピーカーからジングルベルの音楽が流れ、歳末大売り出しのちんどん屋の姿もあり、籤引き場には一等賞品のの箪笥などがウズ高く積まれていたりして、なんとはなく正月を迎え、街はせわしかったものだった。

小さな駅前広場に面した銀行の前に行列ができていた。昨日が締切であった歳末ジャンボ宝くじを買う人の列だ。わが家でもすでに”夢”を求めて大枚3千円を支払い10枚買ってある。さらに”夢”を膨らませようと、僕も行列の後に並ぼうと思ったがやめた。買いたしたしても、せいぜい3枚、900円程度だ。行列するのが面倒になった。これでは億万長者にはなれない。

「竹馬の友」との会話は、やはりお互いの病気の話が中心だが、今年も昔の仲間の一人が他界している。ビール一杯乾杯での昔に比べれば寂しい忘年会だったが、元気にこうして昔を語れるだけでも幸せである。今年最後のGI競馬「有馬記念」の宝くじよりは現実味のある馬券に夢を託して、500円を友に前渡しした。まだまだ、こんな”なまなましい”競馬の予想話をしているのだから二人と若い。

腹腔鏡の手術の安全性

2014-12-19 06:23:06 | Weblog
腹腔鏡による大腸がん摘出手術後初めての外来診察に昨日、国立病院に出かけてきた。退院してから約1か月、経過を心配していたが、良好のようで執刀医からもOKだとの”お墨付き”を頂いた。服用薬も1種類減らし、次回の診断は、年が明けた2月中旬だとのこと。まずは一安心だ。

今年夏の東京目黒区の定期無料診断の検便で、大腸がんの疑いありと診断され、近くの国立病院の精密検査の結果、手術することになった。過去に4回膀胱がんの手術を受けてはいるが、他の臓器には転移しないと聞いていたので、自分なりの判断で、大腸がんと診断され、ショックであった。80歳半ばの高齢なので、できれば手術はしたくなかったが、病院側が事前に精密検査を行い、医師の説得で腹腔鏡による手術となった。

がんの治療は内科とばかり思っていた程度の医学知識の僕である。慌ててネットで腹腔鏡手術を俄か勉強したが、従来の開腹手術と違って、おなかをきらず、おへそのまわりに4,5か所小さなアナをあけ、そこから腹腔鏡をいれて、患部を切除し取り出す手術だと理解した。手術を了解したからには、”俎板の鯉”である。全身麻酔で手術の事は覚えていなかったが、朝の9時から始まって、麻酔から覚め病室に戻ったのは夕方4時であった。腹部の脂肪が普通の人より厚かったため、時間がかかったそうで、執刀医にはご迷惑をかけた。

昨日の新聞に群馬大学付属病院で、最近,腹腔鏡手術を受けた約100人の患者のうち8人が手術後3か月以内に死亡、問題になっている、とあった。素人で詳しいことはわからないが、執刀した医師は、同じ先生で、事故後病院内でこれが問題にならなかったらしい。腹腔手術は、日本ではすでに10年の歴史があり、がん手術の主流だそうだが、このニュースを知り、改めて執刀医の先生をはじめ病院側の関係者のご努力に感謝する次第である。

歴史の転換点 米キューバとの国交正常化

2014-12-18 07:15:49 | Weblog
米国とキューバとの国交が53年ぶりに正常化される。1950年代から60年代にかけて新聞社の外信部に籍を置いていた僕にとっては、まさにこのニュースは歴史の転換点であり、新時代の到来を感じる。1962年10月、米国とソ連(当時)との間で、いわゆる「キューバ危機」が起り、キューバに配置されたソ連のミサイル撤をめぐって米ソ両大国が直接衝突するのではないかと危機感を持った。ちょうど同じ時期、僕は中東移動特派員として、湾岸地域を歴訪中だったので、余計当時の記憶が鮮明だ。

キューバ革命を指導したフィデル・カストロ前国家元首(88)は冷戦時代を象徴する時代の寵児であった。キューバは米国の裏庭ともいえるカスピ海に浮かぶ小島であり、普通なら、この小国の出来事は世界のニュースにならないのだが、専門家でない僕も当時、中学生向けの学年別雑誌にキューバ革命の事を書き、小遣銭にした。そのくらい、当時一般の日本人の間でもキューバ革命と、フィデル・カストロの名前は知れていた。

フィデル.カストロは2008年、病気を理由に国家評議会議長、軍最高司令官を辞任し、弟のラウルに譲り、政治の表舞台から消えているが、元気のようである。若い時トレード.マークのように愛用していた葉煙草も健康に悪いからと、率先して辞めたという。野球好きで、野球を通じて日本人との交流もあるという。半世紀にもわたる米国との断交、その間の世界の流れ、特に冷戦の終りは、フィデル.カストロにとっては感無量なものがあろう。

石原慎太郎氏の引き際

2014-12-17 07:34:38 | Weblog
石原慎太郎氏が政界からの引退を表明した。昨日、日本記者クラブでの引退会見をテレビの画面で見たが、僕には氏の引退は”遅きに失した”感があり、改めて政治家の引き際の難しささについて考えさせられたた。石原氏は僕より学年が2年下で、戦争中、学童疎開した世代だが、テレビ画面で見る限り、相変わらずの勇ましい”慎太郎節”とは、うらはらに体力的には限界を思わせた。

昭和31年石原氏が「太陽の季節」で芥川賞を受賞した時、正直言ってこれが芥川賞かと思った。僕には文学的価値が解らなかったが、戦後すぐのあの時代を、よく描いており、僅か2歳しか違わない僕にとって「太陽の季節」は新時代の到来を予言させた。事実、石原氏の作品は「太陽族」で象徴される、新時代の旗手的な存在になった。

昭和43年、石原氏は参院全国区選挙でトップ当選し、政治家に転身し、自民党内閣で環境庁長官、運輸大臣を歴任したが、石原氏の政治生命を語る場合は,やはり平成14年から4期にわたる都知事時代の功績であろう。一都民として、それを上げるならば、第一にデイーゼル車排ガス規定などの環境対策、臨海副都心の実現、東京マラソンの実施など枚挙にいとまがない、抜群の発信力と行動力であった。

石原氏は都知事4期を終え、引退すべきであった。しかし、氏の政治信念なのだろう。平成22年、都知事を辞任し、新党「立ち上がれ日本」を立ち上げ、大阪の橋下知事と組んで国政に復帰した。国会で安倍総理との間で党首会談もあったが、病身のせいか、かっての氏の迫力はなかった。辞任に当たり石原氏は今後の活動について”言いたいことを言って、やりたいことをやって、人に憎まれて死にたい」と語っているそうだが、石原氏の政治生命は終わった。引き際はどうだったのだろうか。

多くを語った敗軍の将 悲運の海江田代表

2014-12-16 06:33:56 | Weblog
衆院選の東京1区から出馬して落選、比例代表東京ブロックでも票が及ばなかった民主党の海江田万里氏が、昨日責任をとって正式に代表から身を引いた。衆院選の結果について、海江田氏は”自分の力のなさを反省している。候補者を過半数たてられず、政権選択の選挙にならなかった”と陳謝した。まさにその通りである。政権奪還を期す野党第1党が、最初から過半数にたりない候補者では勝ち目がない。何故”背水の陣”でのぞまなかったのだろうか。

ちょうど2年前の12月、衆院選の大敗を受けて民主党代表に選出された海江田氏は就任の記者会見で得意の漢詩を披露し心境を語った。
朧月扶桑戦鼓鳴 寒天寡助計無成 将軍功尽万兵斃 粉骨砕身全比生
民主党のHPによれば、”戦い(2012年選挙)は失敗に終わり、残念ながら多くの将軍(党の領袖)も倒れた。この上は自分は骨を砕き声明を(党のために)捧げたい、という意味だそうだ。

「敗軍の将は兵を語らず」(史記]。三省堂の慣用句辞典によれば”失敗した者は。そのことについて意見を述べる資格はない”そうだが、海江田氏は辞任の会見で、漢詩こそ披露しなかったが、多くを語っているように僕には覚えた。海江田氏の辞任を受けて、民主党は新しい代表の選出に入るが、また、いつものように党内で、選出の方法、時期などを巡って対立があるようだ。代表候補の名前も例によって例の如しだ。

海江田氏は”粉骨砕身”、代表を果されたと思うが、結果的には火中に栗を拾うような2年間だった。悲運の人である。多くを語りたくなるのもよく解る。

自民党は”地すべり”的勝利か

2014-12-15 06:34:02 | Weblog
第47回衆院選挙は”自公圧勝325議席圧勝”(読売新聞)で終わった。英語の表現でいえば”地すべり”(land slide)的な勝利だが、果たしてそうだろうか。連立与党自公でとらえれば数字的にはそうだが、自民党だけみると議席は公示前勢力の293より減って291(読売は自公議席325と報じてるが、正しくは無所属当選者が当選後自民に入党しており326、自民は261)だ。逆に民主党は大敗には違いないが、議席は公示前62議席より73と増えている。

今回の選挙で、老人の僕が最も心配なのは、投票率が52.66パーセントと過去最低であった2012年選挙の59.32パーセントよりさらに低iことだ。52パーセントといえば、ほぼ有権者の二人に一人は選挙しなかった勘定だ。平成になってから投票率は低下し、選挙の期日前投票制度を設けた。この制度は公表で、今回も前回より10パーセント伸びたが、全体の投票率の低下の留めにはあまり役立っていない。

西日本から北日本の日本海より地方の豪雪が、多少投票率に影響したのかも知れないが、雪のない首都圏でも同じである。昭和30年代には70パーセントもあった投票率だ。小選挙区比例代表制になってから投票率は下がってきてる。やはり選挙制度になにか欠陥があるのかもしれない。

安倍総理は今回の勝利で長期政権への地固めが出来た。国民は安倍政権の政策に期待を寄せている。しかし、往々にして”地すべり”にはリスクや危険もある。勝利に奢ることなく、山積する内外の難問解決に立ち向かって頂きたい。

期日前投票は増えたが、最終投票率は?

2014-12-14 05:48:27 | Weblog
東京首都圏は快晴で”投票日日和”だが、西日本から北陸、新潟、東北、北海道にかけての日本海側は豪雪である。これが投票にどのように影響を与えるだろうかー。わが家では心配性の家人の勧めで、格別用事がもないのに、先日好天の日、夫婦そろって期日前投票を済ませてきた。

新聞に昭和21年、新憲法下になって以来の衆院選挙の投票率の推移が票で示されていた。平成5年の第30回総選挙以来、連続7回、投票率が70パーセントを割ったままだ。昭和30年代の4回の選挙は、いずれも30年(75.84)33年(76.99)35年(71,14)38年(73.99)といずれも高い投票率だったが、平成になってからは8年(59.65)15年(59.86)24年は過去最低(59.32)で、50パーセント代である。これは何を意味しているのだろうか。有権者への政治への関心が昔に比べて薄くなってきたこともあるが、選挙制度にも問題があるのではないか。

今回の選挙での期日前不在投票数は12日までで、前回に比べて10パーセント増、1018万人が投票した。これは有権者登録数の9.77パーセントだという。これが最終的な投票率にどのような影響を与えるかはわからないが、平成8年、この期日前投票制度が初めて導入されて以来、6回目になるが、投票率が大幅に増えたことはない。

昭和30年代に投票率が高かったのは”55年体制”が確立され、自民、社会の二大政党下の選挙であったからと思う。今回のように、民主党が凋落し、”第三局”もない、小党分立下の小選挙区制度では有権者の選挙への関心はどうしても薄くならざるをえないのでは。