「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”ブヨブヨで去年のズボンが!”老人の燃焼力

2014-12-13 05:14:52 | Weblog
”ブヨブヨで去年のズボンが 原因は燃焼力の低下”-という気になる動画広告が小ブログにも載っていた。昨年9月から、この15か月に87キロあった僕の体重は73キロにまで減った。原因は膀胱ガン、人工関節置換、大腸ガンと三度も入院手術した結果だが、僕もはいていたズボンがブヨブヨになってしまって困っている。

動画広告には”10年前65キロ、現在75キロ、最近ズボンがきつい、そんな40代、50代男性必読”とあって、僕の場合とはまったく広告の趣旨は違う。働き盛りのこの世代は、日常の暴飲暴食がたたって燃焼力が低下し、ブヨブヨに肥ってしまう。これを防ぐために、わが社の健康サプルメントを飲みましょうという宣伝だ。

僕も30年、40年前の頃を振り返ってみた。学生時代65キロ(身長172センチ)のスリムの身体が、いつの間にか日常の不節制がたたって80キロ近くになってしまった。60歳近くになって、ある大学で仕事をしていた時も、学食で学生並に大盛定食を食べていたのだから無理はない。燃焼力は低下するどころではない。

体重が1年間で14キロも減り、どのズボンもブヨブヨ。みっともないと、先日老妻が僕の体型にきちんと合わせず、安いズボンを買ってきたが、さすがに腹まわりがせまくてはけない。老妻は、これに合わせるように頑張れというが、退院後禁酒し、野菜中心のカロリー食にしている。手術後も医師は、適当に運動は続けてくれという。老人にはそれだけの燃焼力があるのか心配だが、ただ家でゴロゴロしているけは不健康なことはわかっている。老妻が買ってくれたズボンがはけるように、ひと踏ん張りすることにしよう。

ノーベル平和賞と途上国の児童労働

2014-12-12 06:44:40 | Weblog
今年のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女マララ.ユスフザイさん(17)受賞演説をテレビでみた。17歳の少女とは思えぬ、しっかりとした口調で”すべての子供が学校に行けるよう闘い続ける”と訴えた。同時に平和賞を受けた子供を労働から解放する運動に取り組んでいる、インドのサティアルティ氏も”1人の子供も労働の危険にさらされているとしたら、それは世界全体が危険にさらされていることだ”と児童労働の廃止を訴えた。

インドやパキスタンが位置するインド亞大陸は、世界でも有数な児童就労が多い地域で、それから来る子供の就学率も低い。例えばマララさんのパキスタンでは、小学校への就学率66パーセントで、内訳は男性82パーセントなのに女性は50パーセントと極端に低い。これは貧困と女性蔑視のイスラム教の教えからくるものだが、少女の二人は学校にゆけない勘定である。

学校に行けない少女たちは伝統の絨毯産業やサッカーボールの手造りなどに従事している。ネットで知った智識だが、2002年、サティアルティ氏はサッカーの日韓共同世界大会開催のさい来日、同伴のパキスタンの少女とともに、ボールの手縫いを実演、一球つくる手間賃が5ルピア(15円)だと、児童労働の実情を訴えていた。

すべては貧困から来ているが、昔、読んだインドの小学校の教科書には、子供が親を助けて働くことを善行として紹介していた。日本も貧しかった”ねえやは15で嫁にいった”時代には、子供が幼いころから働くことは親孝行と誉める社会風潮があった。僅か100年前の事である。

後期高齢者医療 ”とことん”型か”まあまあ”型がよいのか、

2014-12-11 06:30:28 | Weblog
75歳以上の後期高齢者に対しては”とことん”型医療ではなくて”まあまあ”型医療を勧めるべきだと国際医療福祉大学の高橋泰教授が読売新聞のコラム「論壇」(12月11日付首都圏版15面)で提唱されている。教授によれば”とことん”型医療というのは、例えばガン患者に対して、完全治療を目的に”とことん”手術をしたり、転移しないように抗ガン剤を与える療法のこと、これに対して”まあまあ”型は、高齢者の体力や術後の生活などを配慮した”生活支援”志向型療法である。

昨年9月から今年11月までの15か月間に、僕は膀胱ガン、膝の人工関節置換、大腸ガンと三回も入院手術を受けている。正直いって80歳なかばの老体にとって、出来ることなら手術をせずに治療は出来ないかと思った。それだけに、高橋教授の”まあまあ”型療法の提唱はよく理解できる。

ネットにあった毎日新聞の報道によれば、今年9月に発売されたばかりの前立腺ガン向けの抗がん剤を服用した患者、延べ300人のうち、僅か3か月に5人もなくなっている。60歳代と70歳代の患者である。最近はガン治療医術が進み一昔前までのようなことはなくなってきたが、まだ完全とまではいかない。

僕は手術に当たって、事前に予備入院(血糖値のコントロール)し、身体機能をを完全にチェックした。幸い僕の場合は手術に耐え、無事回復に向かっているが、また、病気が再発して再入院するようなことがあれば、体力に自身がない。高橋教授の提唱する”まあまあ”型治療に頼らざるをえない。しかし、残念ながら今の日本の現状では”まあまあ”型に対応した医療機関が少ない。大型病院での”とことん”型治療は進歩しているのだが。

南京攻略戦の戦果と市民虐殺

2014-12-10 05:37:21 | Weblog
77年前の南京陥落(昭和12年12月13日)前後にあったとされる市民虐殺について、中国の民間団体が北京の日本大使館に対して、犠牲者への謝罪と補償を求める書簡を送ってきたという。一方、毎年、南京市主催で行われている慰霊祭に今年は習近平.国家主席が式典に参加するのではないかという観測がある。

遠い記憶の中で、僕には南京陥落を祝って東京で催された旗行列がある、当時小学校1年生であったが、日の丸の小旗を振り振り軍歌を歌って学校から駅前まで行進した。夜には大人たちが提灯を持ち、万歳、万歳を連呼して長い列になり、町中が祝賀一色であった。子供などで、よく解らなかったが、当時、わが国にとって、南京を巡る戦闘は国民的な関心事であった。それだけに陥落に対する喜びは大きかった。

いわゆる”南京虐殺”が国際的に問題化されてきたのは、不思議なことに戦争が終わって30年近く経ってからである。戦後の東京国際戦犯裁判で、検察側から”南京虐殺”が明らかにされたが、一般の日本人は、それほど問題にはしなかった。それが日中平和条約に関する共同声明が出た1972年頃から虐殺が急に問題化され、エスカレートされていった。朝日新聞に本多勝一記者が、中国各地の日本軍の”虐殺”に主点を置いた「中国の旅」を連載したのはこの時代である。

日本軍が30万人も南京市民を虐殺したという中国の主張は”白髪三千丈”であり頭から信じていないが、当時日本軍が発表した南京攻略戦の戦果によると、南京攻略戦に参加した中国軍は8万人から13万人、うち戦死者2万9千人、捕虜しゃ断1万6千人というのがある。(日本側死傷者6170人)
戦果は一般に自国に有利なように発表するものだが、双方に沢山の犠牲者を出した戦闘であったのは事実であった。小学生であった僕でも、日本軍が手こずったといわれる「便衣兵」という言葉を知っていた。現地にある南京記念博物館は1980年代に建てられたもので、展示物の中には史実と異なるものがあるという。将来にむかっての戦術的互恵関係を望むなら、”虐殺”について両国で再調査し、中国側は一方的な宣伝は止めるべきである。

考えさせられる 豪雪で孤独死した98歳老女

2014-12-09 06:31:43 | Weblog
今回の豪雪で一時4日間も外部から孤立した徳島県の山間のつるき町で、独り住まいの98歳の老女が孤独死しているのが発見された。病死だが、豪雪のため停電し、暖房に使っていたヒーターや電気毛布が役に立たず、寒さが生命を奪ったのかもしれない。老女には65歳になる実の娘さんも近くに住んでいるが、豪雪で連絡が取れなかったようである。

この豪雪を伝える関連記事の中で、つるき町は、徳島県内でも有数なIT先進地で、町内のほとんどがIP電話だという。IP電話は使用料が安く便利だが停電になると使えないという欠点があるそうだ。もしかすると、65歳の娘さんはIP電話で母親の安否をチェックしたかもしれないし、逆に老女も救いを求めたかもしれない。科学の進歩が裏目に出た感じだ。

豪雪地帯といえば、首都圏に住む僕には北陸、新潟、東北、北海道が想起されるが、四国にもこのような地域があることを始めて知った。そして全国的に問題化されている”限界集落”が、現実に各地にあることを実感した。つるき町は、旧半田町、貞光町、一宇村が2005年、合併してできた町だが、典型的な過疎現象が続き、現在人口は1万人を割り込み、旧一宇村には、ほとんど人が住んでいないという。

14日の投票に向けて選挙戦の最中だが、東京では政府が掲げる重要政策の一つ「ふるさと創生」事業がまったく争点になっていない。人口過疎が続く地方ではどうなのか。ネットで調べたら、つるき町の観光の目玉の一つは「巨樹王国」だという。「王国」には樹周8・7メートルの大えのきをはじめ80本もの巨樹があり、パワースポットだと宣伝している。98歳の高齢まで元気でおられる土地である。パワースポットの霊地に違いない。なんとかこのパワーを人間尊重の「ふるさと創生」につなげて貰いたいものだ。

墨で消された大東亜戦争を伝えるマレーシアの歴史教科書

2014-12-08 05:43:58 | Weblog
73年前の昭和16年(1941年)12月8日午前2時15分(日本時間)、大東亜戦争はマレー半島東部のコタバル海岸への第18師団支隊上陸作戦で戦火の火蓋が切って落とされた。ハワイ奇襲作戦に先立つこと1時間半ほど前である。昭和19年文部省国定国語教科書巻6は「コタバル作戦」として、これを紹介している。しかし、この教科書の記述は戦後、進駐軍の命により墨で消され、そのまま抹殺されてしまった。

「コタバル作戦」だけでなく、当時の国定教科書には「マライ(マレー)を進む」「不沈艦の最後」といった題で、日本軍が激しい敵の抵抗を排除してマレー半島を南進し、僅か1か月半でシンガポールを占領した戦記や、当時世界一を誇った英国の極東海軍の”不沈艦隊”を撃破した空中戦の模様を紹介している。今、80歳前後の日本人は皆、これを学校で学んだが、戦後昭和21年、進駐軍の命令により、学校で先生からすべて消すように指導された。以後日本人はこの史実を忘れられてしまった。

ところが、マレーシアの歴史教科書には、マレーシアの建国はコタバル上陸作戦から始まるという記述があることをネットで知った。(http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page014.hfmf)内容を全文読んだわけではないが、マレーシアの歴史としては当然、避けられない史実である。2012年、僕は戦争中英国軍が降伏文書に調印した跡地にあるシンガポールのブキティマ戦争博物館を訪れ、館所蔵の戦争中の記録映画を見たが、日本軍の「コタバル作戦」や「マライを進む」「不沈艦の最後」も記録として残っていた。

日本人の4分の3は戦後生まれで戦争の事は知らない。変な自虐心があってか先の戦争については、避けて通る傾向があるが、史実は史実としてきちんと学校で教えるべきである。さもないと、結果的には不幸である。

  

「孔子学院」の戦略 日本は大丈夫か

2014-12-07 06:02:12 | Weblog
米下院外交委員会が、中国の「孔子学院」に対して米国内の”学問の自由を脅かしている”として監査院(GAC)に調査を求めた。「孔子学院」あまり聞きなれない機関だが、中国の教育省に属し、世界約120の国と地域のおよそ450の大学と提携し、中国の文化と教育の普及を通じて相互の友好を促進す目的で設置されている。ところが、この「孔子学院」が最近、米国やカナダの大学で閉鎖されるところが出てきた。はっきりした理由は判らないが、中国が「孔子学院」を通じて、特定の思想を宣伝し、カリキュラムにまで介入しきたからのようだ。

寡聞にして知らなかったが、日本にも「孔子学院」が10幾つかある。最初に設置され一番活発なのは「立命館孔子学院」で、2005年北京大学との間に設立され、現在京都の大学のほか東京、大阪にも分校があり、主として中国語の講義や文化講座を定期的に開催している。関東に住んでいる僕には、関西の大学についてはよく知らないが、10年近く前、機会があって立命館の「国際平和ミューアム」を見学した。

今でも覚えているのは、展示物のなかに南京虐殺当時のものとされる残虐な写真があったことだ。南京虐殺については諸説あり、未だにはっきりしないが、中国では30万人以上が虐殺されたとして、現地に当時の模様を伝える博物館もある。僕が立命館ミュージアムで見た写真は、たしか「南京事件」1週間後、揚子江岸で撮ったとされる現地の写真のコピーであった。

「孔子学院」と「国際平和ミュージアム」との関係は、これも寡聞にして知らないが、同一大学内の組織である。ミュージアムは関西地区の一部の小中学校では修学旅行のコースにもなっていると聞く。文科省は、いちど「孔子学院」の実態を調べて見てもいいのではないか。

目黒通り12月のの黄葉と紅葉

2014-12-06 05:19:36 | Weblog
昨年暮の膝の手術以来、すっかりご無沙汰していた自由が丘の目黒通り脇の無人スタンドへバスで野菜を買いに行った。12月といえば、季節は初冬だが街路樹の銀杏は黄色に染まり、植木溜めの木々は紅葉真っ盛りであった。
戦前昭和の時代は、12月といえば”カラっ風”が吹き、もっと寒かった記憶がする。街行く人も、襟を立て背中を丸めて気ぜわしそうだった。これが師走の風景であった。
皇居乾門通りが、天皇皇后両陛下の傘寿(80歳)を記念して一般公開され、連日紅葉客で賑わっている。僕もテレビの画面で見たが素晴らしい。12月の紅葉など昔は考えられなかった。70年前の昭和19年12月、東京は米国の空襲が本格化してきた。連日、警戒警報と空襲警報のサイレンが鳴り響き、とても紅葉をめでる気持ちなど起らなかった。

乾門通りの紅葉風景をみて、集団自衛権が行使されるようなことがなく、いつまでも平和な時代が続くことをただ願うだけである。

海江田代表と野々村県議の涙

2014-12-05 06:08:47 | Weblog
12月4日付けのわが家の購読紙「読売新聞」(首都圏版)の一面トップ記事の見出し”自公300超す勢い 民主伸び悩み”。「産経新聞」の同じ見出し”自公300議席超す勢い 民主劣勢”。まったく謀ったように衆院選序盤の模様を伝えている。二社とも自民党寄りの新聞といわれているが、かって民主党の御用新聞だった「朝日新聞」も”自民だけで300議席 民主公示前の62”と同じ観測だ。早速、自民党は谷垣幹事長名で”油断をさせるマスコミの陰謀”とばかり全国に緊急引締め通達を出した。

外部との接触が少なくなった老人には、テレビと新聞雑誌、ネットが情報源だが、たしかに民主党の”凋落”を感じる。選挙公報に登場する海江田代表に勢いを感じない。拳(こぶし)を突き上げて獅子吼しているみたいだが、僕の脳裏には、まだ海江田氏が経済通商大臣時代の2011年、国会の委員会で自民党議員から辞任を迫られ、顔に涙を浮かべた姿が残っている。折しもテレビの画面には、政務活動費の不正流用でで辞任させられた、野々村兵庫県議のあのみっともない号泣姿が映されていた。

僕ら昭和1ケタ世代には、まだ男の涙は女々しいとかメソメソしている感覚がある。海江田代表の、あの通商大臣当時の涙はマイナス要因であるの間違いない。僕の記憶に間違えなければ、海江田氏の涙は当時の菅直人総理との確執が裏にあったような気がする。北島三郎の歌った「男の涙」の歌詞にこんな一節がる。「おまえ一人を死なせるものか 死ぬときやおれも一緒だ 苦労ばかりかけてきた 馬鹿な男の目になみだ”。菅元総理も東京の選挙区で苦戦中だと伝えれるが、涙することはあるだろうか。

輸血血液の不足と売血時代

2014-12-04 05:56:53 | Weblog
少子高齢化が輸血血液にまで影響している。読売新聞の記事(12月3日首都圏版)によると、1985年のピーク時に比べて献血者数は494万人まで激減し、最近啓蒙運動で多少もり返し500万人になったが、それでも絶対量は不足しており、このまま推移すれば2027年には85万人の血液が不足する見通しだという。

戦後1950年代から60年代にかけて東京で学生時代を送った世代にとっては、葛飾の本田立石の地名は忘れられない。この地にあった製薬会社が毎日広告を出し、貧乏学生から”売血”を求めていた。作家五木寛之の「青春の門」にも、売血の貧乏学生が出てくるが、僕の親友(故人)も売血の常習で、いつも青白い顔をしていたのを想い出す。売血は1964年、ライシャワー駐日大使が、刺傷事件後の輸血が原因で肝炎になったのが契機で廃止になった。

読売新聞の記事によると、日本赤十字社が厚労省に報告した資料では、献血者の若年層の減少が目立つという。20歳代は7・4パーセント、30歳代は6・9パーセントである。僕らが学生時代には、働きたくともアルバイト先がなく、やむなく売血していた。今は街の外食店やスーパーの店先には、時給千円前後ののアルバイト募集広告が常時出ている。

僕が学生時代を送った戦後すぐの時代は、食料難から大学は6月から夏休みに入った。学生食堂も学生寮の米穀配給手帳を持つものしか食べられなかった。いまは”飽食”の時代である。献血しても貧血から倒れる若者はまずおるまい。社会奉仕の一環として、もっと献血に参加したらどうだろうかー。