「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

夭折した叔母の百年忌

2015-07-21 05:52:17 | 2012・1・1
梅雨が明けて間もないというのに東京は連日真夏日が続いている。練馬の観測地点では、すでに18日記録し、うち3日は35℃を超す猛暑日とのこと。僕はすっかりバテ気味だが、老妻が昨日、この暑さの中を娘と一緒に大正時代に夭折した僕の叔母の消息を求めて浅草の長国寺へ出かけてくれた。

先日、わが家の歴史を調べていたら、亡父の昭和13年8月14日の日記にこんな記述があった。「今日は亡妹の23回忌である。午前9時、一家をあげて浅草田圃(たんぼ)の長国寺へ墓参にでかけた。年回忌というのに誰も詣でないのは可哀いそうである」。亡妹とは僕の唯一人の叔母だである。亡父から生前叔母が嫁入りして間もなく結核で亡くなったことは聞いていたが、ご遺骨がどこに葬られているかは知らなかった。老妻はの僕の亡母から、入谷の鬼子母神のお寺だと聞いていて、先年朝顔市のさい出かけ探したがたが判らずじまいになっていた。

帰宅した老妻の話によると、叔母のお墓は戦災で焼失、その後遺族も不明のため整理されていた。しかし、お寺さんの過去帳には戒名が残っていた。叔母は大正4年8月14日に亡くなっていた。今年は叔母が亡くなって百年にあたる、わが家の仏壇には叔母が結婚前に牛込の写真館で撮った一枚の写真がある。亡父の遺品箱には、叔母が卒業した高等女学校の免状も残っている。

老妻が亡母から聞いた話では、叔母は第二の”樋口一葉”とも言われ、明治後期の文芸雑誌にかなり作品が残っているという。これを契機に叔母を偲んでその作品探しをしようと思っている。


昭和10年代にはお台場や月島でも泳げた

2015-07-20 05:27:00 | 2012・1・1
7月の第3月曜日は国の祝日「海の日」である。制定されてから今年で20年になるが”ハッピ―.マンデイ”で、毎年日が変わることもあって今一つ国民の間で休日意識が定着しない。特に80の老人にとっては「海」は、はるか遠い想い出ばかりの存在になってしまった。

東京23区内で40数年ぶりに葛西海浜公園{江戸川区}で”顔を海につけて”泳げる海水浴場が復活した。お台場でも泳げないが、「渚」遊び程度はできるようになったという。喜ばしいことだが、考えてみると戦後70年、僕は東京23区内の海では泳いでいない。最後に泳いだ記憶は月島(中央区)の埋め立て地であった。今は埋め立てが進み、どのあたりか判らなくなってしまったが、都電の終点で降りて15分ほど歩いたところであった。昭和18年の夏休み、亡父の友人がここで水泳道場を開いていた。

僕が最初に泳げるようになったのは昭和15年、お台場(品川区}で開催された海洋少年団主催の水泳教室であった。会場は今は埋め立てられた第2お台場で、浜松町駅近くの小さな船着場から艀(はしけ)に乗って出かけた。会場には初心者用にプール状の大きな木箱が備え付けてあった。水泳教室の最終日には、上級者は羽田沖まで遠泳をした。

葛西海浜公園が、どのあたりかさっぱり見当がつかないが、昭和17年、当時総武線の平井鉄橋下の水泳道場から葛西橋までの川下りの遠泳に参加したことがある。調べてみると12キロあるが、よく泳げたものである。平井鉄橋下あたりは引潮時にはゴミが露出して、子供心に不衛生に思われたが、顔を水面につけて平気で泳いだ。月島もお台場のけっしてきれいな海ではなかった。誤解を招きそうなの一筆すルが、もう当時は一般都民は東京の海では泳ぐ習慣はなかった。

誤解を生む連合軍捕虜への謝罪

2015-07-19 05:23:53 | 2012・1・1
三菱マテリアルが戦時中、同社の前身だった三菱鉱業時代に米軍捕虜を強制労働させたとして”初めて”謝罪したという。日本の新聞はあまり大きく報道しなかったが、ネットによると、韓国のメディアは早速”歴史的な”とか”重要な意味がある”謝罪だとし、”何故、中国や韓国には謝らないのか””将来大きな問題化するのは必至である”と報じているそうだ。

連合軍捕虜に対する補償問題は、すでに昭和26年のサンづランシスコ条約の6条によって基本的には解結済みである。外電によると、日本の外務省(在米公館)は三菱マテリアル個々の問題も2009年解決済みで、今回の謝罪は三菱マテリアル社の”決断”であると評している。外電では謝罪式典は19日、ロサンゼルスで行われ、同社からは常務役員が参席、旧捕虜も出席するという。

戦争中、南方戦線で捕虜になった連合軍(米英蘭など)が、船で日本に連行され人手不足の内地の鉱山、製鉄所、軍需工場で働かされた。当時、僕が住んでいた東京の青物市場へも品川の捕虜収容所から野菜を買いに来ていたのを覚えている。この捕虜たちが、食糧不足と慣れぬ労働から千人単位で死亡している。横浜の英連邦墓地には、犠牲者の墓碑があるし、福岡県水巻にもオランダ人犠牲者の「十字架の塔」もある。捕虜取扱いに関するジュネーブ協定違反であり申し訳ない。

しかし、戦後、捕虜虐待の罪にとわれ,いわゆるBC級戦争裁判で沢山の方が処罪されている、釜石では連合軍艦砲射撃から捕虜を守れなかった理由で収容所所長が横浜裁判で7年の刑を言い渡されている。三菱マテリアルのケースは何か特別な理由があって謝罪するのであろうか。国がすでに謝罪している問題に改めて一企業が謝罪するのは誤解を産むだけだと思うのだが。

新国立競技場 節約と勤勉の心

2015-07-18 05:11:42 | 2012・1・1
巨額の新国立競技場建設計画について昨日、安倍総理が白紙に戻し、ゼロペースで再検討すると公表した。正直”よかった、よかった”というのが国民の声である。なぜ、こうしたことになったのか解からないが、おかしいのは、つい最近も「有識者会議」が、ためらいもなく巨額計画を認めていたことだ。「有識者」とは”有識”はあっても”常識”を持ち合わせていないように僕には思えた。
 
51年前の東京五輪当時の事を思い起こしてみた。国中が五輪で沸き立っていたが、会場が”どうだ、こうだ”といった問題はあまり話題にならなかったように思う。メーン会場の国立競技場(霞が丘)は、すでに昭和33年のアジア大会の時、五輪招致を考えて出来ており、観客席を10万人に拡張するだけだった。言ってみれば、6年前の”お古”だが、それ以上新しくせよという声はなかった。

問題は、代々木会場が進駐軍宿舎の返還交渉が手間を取り、果たして開場に間に合うかという点であった。確か起工したのは五輪の前年で、僅か18か月で完成している。最後の工期は24時間昼夜兼行で工事が行われた。今、思うと、あの時代はわが国にとって、五輪は荷が重すぎる国家事業だったのかもしれない。が、それを成り遂げられたのは、国民が一丸になった心であった。そして、それを支えたのは節約と勤勉であった。

節約と勤勉は日本人の美徳の一つである。このまま「有識者」の意見を入れて新国立競技場を作っていたら、国民の不満のまま残り、五輪を迎えることになった。当然なこととはいえ、安倍総理の大決断である。

”オーソドックス”な新競技場を!

2015-07-17 04:57:38 | 2012・1・1
2020年東京五輪のメーン会場となる新国立競技場の2520億円という巨額な建設費をめぐって世論の大反対に会い、政府は計画の再検討を始めたようだ。しかし、国際デザイン.コンクールで一度決まったものを簡単に破棄出来ないようだし、工期の問題もあって難しいのではないかという声もある。昨日、この問題についてコンクールの委員長だった建築家の安藤忠雄氏が記者会見して、同氏はコンクールに関与しているだけだと立場を明らかにした。

多分、僕もそうだと思う。事業主体のJSC(日本スポーツ振興センター)は、コンクールの条件として事前に予算として1300億円を提示しており、安藤氏もこれを承知して選に当たった。ところが、2013年9月、IOC(国際オリンピック委員会)で、五輪開催が決まった時には、総工費は最大3000億円に膨れ上がっていた。何故なのか。JSCの杜撰さと、監督官庁の文科省の責任以外にはない。

2520億円とは如何に巨額なのか。本ブログのコメンテーター、lodyupaさんが「新国立競技場と五輪大臣の疑惑」(7月9日更新)の中で、過去の五輪の競技場建設費と比較して、如何に2520億円が突出しているか示し、それだけの予算があれば、拉致が二度と起きないように国防の強化に回すべきだと主張されている。lodyupaさんによれば、平成27年度の海上保安庁予算は1876億円(人件費982億円)。

産経新聞のコラム「正論」(首都圏版7月16日)に池井優慶応大学名誉教授が”新国立計画は再考出来ないのか”と次のように書いている。「人目につく派手な競技場より選手にとって最高なプレーの場、観客には見やすく、メディアには取材しやすい。以後の利用と維持にも費用のかからないオーソドックスなスタジアム」。まったく同意見である。

意義があるのか不確かな”自虐史”の新たな掘り起し

2015-07-16 06:21:07 | 2012・1・1
知人から宅急便でどっさりと資料が届いた。こちらからお願いしているわけではなのだが、このように毎日ブログを更新している僕にとっては助かる。その資料の中に、最近昭和史研究家としてNHKラジオにも出演しているH氏がある雑誌に書いている「戦場体験者の記憶と記録」の原稿コピーがあった。原稿の内容は戦争中、北スラウェシ(インドネシア)のサギへ島(Sangihe)島での虐殺であった。10年ほど前、僕が「大東亜戦争とインドネシア」という本を出版しているので、僕の意見を聞いてきたのだ。

知人はH氏が、戦時中スラウェシ(セレベス)に駐屯していたA氏の話としてサギへ島で日本軍が住民24人を虐殺したと紹介しているが、知人は、この事件が関係国、関係機関、個人(除くH氏)も発表していないし、調査もしていない、きわめて奇怪な不思議な事件である。A氏とはだれなのか、ご存知なら、あなたの所見と共に教えてくれとあった。

大東亜戦争中のインドネシアの軍政について、和蘭の国立戦争資料館ともかって連絡をとり調査したことあり、虐殺についてもポンティアナ(西カリマンタン)他おもな場所へは現地まで行き調べているが、このサギへ虐殺については知らなかった。しかし、H氏がニュース.ソースとされるA氏とおぼしき人物とは一面識あった。A氏は戦時中、北スラウェシの独立歩兵大隊の下士官だった人で、たまたま同じ部隊に、新聞社時代の先輩がいて、僕が軍政を調べていると聞き”彼の話は要注意”と忠告を貰っていた。

H氏は自分が主宰する「昭和史」講座にA氏が寄稿してきた原稿を通じてこの事件を知った。原稿の内容からみると、その後A氏と何回かあっているようだが、サギへ現地にはいっていないようだ。A氏は戦後1990年代になってキリスト教関係の団体を通じてマナドに長期滞在していたが、本格的にインドネシア語を勉強したとは思えない。虐殺された事件の犠牲者たちが書いた文書があるそうだが、だれが日本語に訳したのであろうか。それと軍事用語だがサギへは海軍統治地区なのに陸軍の憲兵が登場してきたりしている。

このような真偽が判らない不確かな情報を新たに掘り起こして公表する意義が今あるのであろうか。戦後70年の区切りの年で、インドネシアの事に触れるなら、例えばパレンバンのムシ川にかかる開閉橋とか、ジャワの「SABO(砂防)センター」などわが国からの賠償資金やODA援助について触れて貰いたかった。

お代官の手代(てがわり)だった祖父

2015-07-15 05:18:07 | 2012・1・1
東京は今、お盆の最中だが戦前のように”迎え火””送り火”を焚くわけでもない。わが家でもかっては盆提灯をともしたが、家を改造してからその習慣もなくなった。老妻が僅かに盆を迎えるに当たって仏壇を整理したら、引き出しの奥から、今まで気がつかなった和紙の古文書が出てきた。細かい筆字を虫眼鏡のお世話で見ると、わが家の系譜図(写し)の一部で、祖父(1831年―99年)の生前の業績が記されている。昭和6年(1931年)生まれの僕はもちろん祖父に会ったことはないし、詳しい業績など知らなかった。

わが家には数年前、このブログでも紹介したが、文久3年(1863年)祖父が横浜で撮った、腰に二本、刀をさしたちょんまげ姿の写真が残っている。40年前までは、ガラス板の原版もあったが、引っ越しで紛失してしまった。この写真と生前の父親の話から、祖父が川家直藩の”さむらい”だったことは知っていたが、、何をしていたのか、何故横浜で写真を撮ったのか不明だった。写真の祖父が手にした扇子には「文久三年 三十二歳」と記してある。高杉晋作が奇兵隊を結成し、薩英戦争のあった幕末の混乱期の写真である。

見つかった古文書を見ると、文久3年、祖父は川直藩の代官だった小笠原甫三郎の手代を仰せつかり、勤務地の神奈川奉行代官手代から甲斐(山梨県)に赴任している。祖父は神奈川奉行地の前には上野国(群馬県)岩鼻でも代官手代をしている。代官手代とは「コトバンク」によれば、徳川幕府の郡代、代官の属僚で、”てがわり”と呼ぶそうだ。祖父は、ご一新(明治維新)の後は新政府の民政裁判所の書記などして、引退後は当時は上野の山里であった日暮里で悠々自適の隠居生活を送った。自分史もそうだが自分の家の歴史についても、ある年代になると関心が出てくるものだ。

”嫁を貰おうか” 昭和32年 13,800円の時代

2015-07-14 06:08:39 | 2012・1・1
14日早朝午前3時台のNHKラジオ深夜便のコーナー昭和歌年鑑で32年の流行歌を紹介していた。このコーナーも最近、アンカーが若返り、それに伴って選択される歌も”ジャパニ―ズ.ポップス”など80老にはなじみの薄いものが多かったが、久しぶりに58年前の歌を聞き、昔の青春時代に帰り、懐かしかった。その中の一曲、フランク永井が歌ってヒットした「13,800円」が当時の世相を見事に反映してるので、紹介してみる。

♯ 13,800円 (作詞 井田誠一 作曲 利根一郎)
一、モッコかつげや つるはしふるえ  歌え陽気に炭坑節
黒いダイヤに惚れたのさ 樂じゃないけど13,800円
たまにゃ一杯呑めるじゃないか
ニ、カラのトラック思い切りとばしゃ ビルの谷間に灯がともる
今日もとにかく無事だった 嫁をもらおか13,800円
ぜいたくいわなけりゃ 食えるじゃないか

昭和32年、僕はすでに結婚、子供も1人いた。当時給料をいくら貰っていたか忘れたが、歌の13,800円前後だった。両親と同居していたので、多少、生活にゆとりはあったが、それをよいことに仲間とよく外で飲み歩き、借金ばかりしていた。高度成長前で、石炭が”黒いダイヤ”と言われ、炭鉱が景気の良かった時代だ。39年の東京五輪景気前で、東京都の失業対策事業の日雇い手当が一日、240円で、二コヨンと呼ばれていた時代である。

若者世代の結婚離れが進んでいるという。これは経済的理由によるものだろうか。それとも”草食系”の男性が増えてきているのであろうか。13,800円の歌の三番、四番は、こう結んでいる。
三、明日は日曜お弁当持って 坊や行こうぜ動物園 
ママもお猿をみたいという 一家団欒 13,800円
笑って暮らせばなんとかなるさ
四、クイズ解こうかラジオを聞こうか 親子三人手をつなぎ
夢も結構わいてくる これが浮世だ 13,800円
泣き言いうのは、泣き言いうのは止めよう


            

後期高齢者医療の窓口3割負担は酷で不平等

2015-07-13 05:37:53 | 2012・1・1
やがて4人に1人の老人が「認知症」になるという時代なのに、国の高齢者医療福祉行政サービスは難解複雑で不平等で年寄り泣かせである。先週末、家の郵便箱に別々の封筒に入った”重要”印の押してある、役所からの封筒が届いた。一通は東京都後期高齢者医療広域連合からの新年度の「後期高齢者医療被保険者証」(保険証)の交付である。保険証が入っているから、何の通知だかすぐ判ったが、よくみると、窓口負担が一割から三割になっているのに詳しい説明がない。ただ、昨年度の住民税課税所得等によって変更になった、とあるだけだ。

もう一通は自分の住んでいる区の介護保険課資格保険料係からの来年度の介護保険決定通知書で、通知書に添えて「国民年金課後期高齢者医療係(長寿医療係)行き医療証返却用の封筒が入っていた。医療証とは何なのか。古くなった保険証を意味するのか、それとも介護保険証のことを指すのか、合計年齢186歳でも認知症とは診断されていない僕らでもわからない。

もう何度か小ブログで指摘しているが、相も変わらず役所言葉で漢字が多く、解かりにくい。それに主題の通知とは無関係の”お知らせ”が多すぎる。広域連合の封筒の中には”ジェネリックス”の希望シールや”臓器提供意見表示”などが入っていたが、高齢者になると、判断力が欠如している。税金の節約と思って同封するのだろうが、老人には不親切で逆効果である。

役所ではいまだに後期高齢者医療保険を「長寿保険」呼ばわりしているのだろうか。窓口三割負担者を”現役なみ”と”おだてている”が、負担は現役でも医療機関にお世話になる回数は、若い時とは比較にならないほど多く出費高だ。前期高齢者(70歳―74歳)と同じように後期高齢者も一律二割負担にして、三割負担は廃止すべきである。そのほうが税収増だと思うのだが。

安藤忠雄氏は説明したほうがよい 新国立競技場問題

2015-07-12 05:19:59 | 2012・1・1
2020年東京五輪のメーン会場となる新国立競技場の建設予算が当初よりも巨額になった問題について色々意見が出ている。国会でも問題にされ、民主党の辻元清美議員が、安倍総理に”咬みついた”が、あっさり総理はこれを認めた。総理にしてみれば、新国立競技場の基本案が決定を見たのは2012年11月、野田政権時であり、責任逃れの気持ちがあったのかもしれない。

素人なりに、この問題を整理してみると解からないことばかりだ。基本案は確かに野田政権末期、衆院解散が決まった頃に決定している。事業発注元の文科省文郭の独立行政法人、JSC(日本スポーツセンター)が行った国際コンペ(委員長 建築家安藤忠雄氏)で、イラク生まれの英国籍女性建築家、ザハ.ハディ氏の案で決定している。安藤氏によれば”応募者はコンペ与条件の1300億円は認識しており、建築コストも明示している”と民放の番組の中で示唆している。

これからは、僕の推察になるが発注元のJSCがデザイン料と建築費との関係などよく理解出来なかったいたのではないだろうか。下村博文.文科相も同じようなことを言っている。安藤忠雄氏は、先日JSCが開いた有識者会議に欠席しているが、安藤氏にしてみれば、こんな国際コンペの基本的なことが判らない政府の会議に恥ずかしくて出られない気持ちがあったのかもしれない。

そうは言っても、国際的な威厳をかけて、すでに決まった行事である。下村文科相は、安藤氏の説明を聞きたいといっている。国民もそれを望んでいる。次元の低い話で恐縮だが、自分の家の設計図をみてもなかなか素人には理解できない。当然、誰かが責任を負わなければならないが、ここは”オールジャパン”で事に当たって貰いたい。