「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

"淋しかった僕の庭にバラが咲いた”

2016-05-21 05:33:43 | 2012・1・1

”バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが 淋しかった 僕の庭に バラが咲いた”(マイク真木歌 浜口庫之介作詞作曲 昭和41年)。フォークとかJポップといった新しい音楽にうとい僕だが、半世紀も前のこの歌を憶えていて歌えるのは不思議だ。

昭和41年という年は2月から3月にかけて全日空とカナダ航空の羽田沖墜落事件、BOAC(英国海外航空)富士山上空空中分解事故、と三件もの大きな航空事故が続発している。そんな中で僕は2月末、インドネシアへ新聞社の特派員として出発、翌年までジャカルタに滞在した。従って、僕はこの歌が流行していた時、日本にはいなかったのだが、長い人生の中でも忘れられない一年だから、この歌を覚えているのかもしれない。

今思うと、この時代は高度経済成長へ向けてスタートラインについた頃だった。もはや”戦後の時代”ではなくなっていたが、今のように庶民がガーデニングを楽しむ心の余裕はまだなかった。この歌の歌詞が象徴するかのように、まだ僕の家の庭も淋しかった。それ以前、戦時中は防空壕が掘られ、カボチャの茎が這っていた。それを思うと、改めて今の平和な時代に感謝する。

知事の”悪行” 何故、都議会は黙っているのか

2016-05-20 05:28:50 | 2012・1・1
升添要二.都知事の公私混同の”悪行”は、本人は精査しているといっているが、逆に次々に新しい容疑が出てきている。今度は政治資金を使って、車二台を購入したり、自分の似顔絵入りの和菓子を大量に配っていたという。これだけ知事の”悪行”が、マスコミで明らかにされているのに、都議会がダンマリを続けているのは不思議だ。小ブログでも、コメンテーターの一人、lordyupa さんが都議会内に百条委員会を設置して知事の”悪行”を追及すべきだ提案されているが、もっともな話だ。

東京都議会は2014年の都知事選挙のさい、升添氏を知事に推薦した都議会自民党(TOKYO自民党)は、都議会内の最大勢力で56名の議員を有しているし、公明党も25名の議員がいる。今、思っておかしいのは、升添氏は2012年、自民党を脱退し、新党改革を作った際、自民党本部は升添氏を除名処分にしたのに何故候補に推薦したのかだ。

民主党の菅直人政権時代の2010年12月、誰が呼びかけたのか判らないが、民主党の総理を辞任した鳩山由紀夫氏と弟の邦夫氏(自民党前総務大臣)それに小沢一郎氏の三人と升添氏が東京の寿司屋で会談を持っている。当時国会では、小沢氏の政治資金問題で小沢氏を国会に喚問すべしという声が強く、菅内閣は行き詰まっていた。

升添氏は当時”小沢嫌い”の先鋒だったが、なぜその小沢氏を含めて鳩山兄弟と会ったのか。政治家としての升添氏は解からないことが多すぎる。ただ言えることは、”学者先生”だった升添氏が小沢氏など老練な政治屋を通じて、色々”政治”のウラを学習したことかもしれない。

"米寄こせメーデー”の時代と「食品ロス」の今の時代

2016-05-19 06:08:35 | 2012・1・1
ちょうど70年前の昭和21年(1946年)5月19日、皇居前広場は「飯米獲得人民大会」(通称「米寄こせメーデー」が開かれ25万人の大群衆で埋まった。参加した日本共産党の”細胞”の一人のプラカードには「朕(ちん)は、たらふく食っている。汝(なんじ)臣民、餓えて死ね 御名御璽(ぎょめいぎょじ)」と、天皇の勅語を模した言葉まであった。当時旧制中学4年生だった僕はデモには行ってないが、鮮明にこの日の事を覚えている。

5月といえばコメの端境期である。そこへ持ってきて、前年が異常気象による飢饉、また、敗戦で海外から数十万人が一挙に復員、帰国してきたため、食料事情は極度に悪化した。主食の米は底をつき、遅配が続き、ついには欠配にまでなった。わが家でも同じで、母親が、タンスの中から自分の着物を持ち出し、農家を駆けずり回って”ヤミ米”と交換、やっと飢えを忍んだ。”口に入るもの”は何でも鍋にぶち込んだ薄い雑炊であった。ついにコメがなくなり、フスマを食べたこともあった。

あれから70年、いまは飽食の時代である。先日富山で開かれた先進7カ国の環境相会議では「食品ロス」が議題になった。”食べられる状態にあるにも関わらず、廃棄される食品”の事を「食品ロス」というのだそうだ。ネット情報で、わが国では、この「食品ロス」が年間500万トンから700万あると知り驚いた。日本人一人当たりおにぎり2個を捨てる量だとのことだ。70年前新橋駅前のヤミ市では、進駐軍キャンプから出た残飯の雑炊が名物だったという。孫がアルバイト先のスーパーからもらってきた50パーセント引きのサンドウィッチを食べながら、今の時代に感謝した。

首都圏の70年周期地震説

2016-05-18 06:00:26 | 2012・1・1
東京首都圏では先日の夜、茨城県南部で震度5弱の地震があった。馬齢を重ねたせいか、少し位の揺れには驚かなくなったが、気象庁の発表で、この地震が平成11年3月11日の東日本大震災の地震の余震圏外で起きた,つまり、震源地の違う新しい地震だと知り若干気にならないではない。東京では、約70年周期ごとに大地震が発生するという説がある。幕末の安政大地震(1855年)から関東大地震(1923年)までの期間は68年、これに対して関東大地震からすでにもう92年もの時間が経過している。

関東大震災については、亡くなった両親を初め周囲に体験者が大勢おり、その怖さを知っている。しかし、安政大地震の話は聞いたことがない。熊本大地震もあり、改めてネットで過去の大地震を調べてみたら、安政大地震は江戸だけでなく、同じ年に飛越(富山、岐阜)、八戸沖(青森)、伊賀上野(三重)各地でも起きている。さらに古い慶長大地震(1596年)でも、伊予(愛媛)豊後(大分)伏見(京都)と広域にわたって大地震が起きていた。

残念ながら、現在の科学でも地震は予知できないようである。しかし、東京首都圏直下地震が、近い将来発生する確率は高いという専門家が多い。自分勝手だが、願わくば、余生少なくなった我が人生の間で起きて貰いたくないものだ。今思い出すと、東日本大震災の前には、茨城、福島、宮城を震源地とする小さな地震が多発していた。

安政大地震のさい、江戸の町では飼っていた「うなぎ」が異常行動を起こしたと広く伝えられている。東日本大震災でも同じような話がネットに流れている。備えあれば憂いなし。準備だけはきちんとすべきであろう。



クールビズの国会質疑

2016-05-17 05:26:59 | 2012・1・1
ブログの題材探しに昨日、NHKのテレビ中継の衆院予算委員会の模様を見た。民進党の岡田克也代表が、アベノミクスの”失政”を追及したが、僕の目には今一つといった感じ。安倍総理の巧みな答弁にかわされた印象を受けた。それに、申し訳ないが、岡田代表の例によって例の如しの仏頂面はテレビ向けではない。

午後の質疑では岡田代表の関連質問で大西健介議員が質問にたった。甘利明前経済担当相のURをめぐる金銭授受疑惑についてだが、まったくその通りだ。しかし昨日の予算委は、熊本大地震を受けての追加予算審議である。これまた申し訳ないが、焦点ボケして色褪せた印象を受けた。それより、僕のような頭の固い老人の目には大西議員のノータイ姿はだらしなく不謹慎に映った。クールビズの季節であり、違法ではないのだが、国の大事を審議する国会である。ネクタイを外したからといって、それほど温暖化防止には役立つとは思えない。テレビカメラが委員室内の同じノータイの先日、週刊誌を賑わせた自民党議員をとらえていた。

5年前の東日本大震災の時を想い出した。国会は5月の大型連休中も休みを返上して予算委員会が開かれていた。大地震。大津波それに原発事故が重なって、今回の熊本地震の比ではなかったが、菅直人内閣の失政で審議は前に進まなかった。当時野党だった自民党は予算委で審議中だった菅総理の在日韓国人からの政治献金問題を棚上げして震災復興審議に協力した。甘利氏の問題をウヤムヤにすべきだといのではないが、本地震に対する追加予算審議の場ではあまりふさわしくない。




老人泣かせの床屋の店じまい

2016-05-16 05:42:20 | 2012・1・1
僕の長年行きつけの理髪店の店先に閉店の挨拶のビラが張られていると娘が知らせてくれた。老妻が買物のついでに確認したところ、80歳をすぎた店主の手先に少し震えが出てきたので大事をとって閉店に踏み切ったとのこと。そして、長年の愛顧に感謝しますと図書券を頂戴した。昔ながらの商人道、いまだに地に落ちずである。

都会で理髪店の数が減り始めてきてからかなりたつ。若い世代の”床屋離れ”が始まり、子供が床屋へ行かなくなってから久しい。その影響で理髪師になる志望者が減り、代々の稼業をつぐ者がなくなり店を閉じるという悪循環だ。戦前昭和から30年代にかけては街の理髪店はどこも満員で、順番待ちは当然という盛況だったのが、まるで夢のようだ。

閉店で、僕は次の理髪店探しに困惑している、老妻は息子や孫が行っている美容院を勧めてくれた。料金は床屋さんの半額ぐらいだ。しかし、頭の固い僕は、女性が行く美容院で頭の毛を刈り、髭をそって貰う気持ちにならない。それに、昔から続く理髪店独特の”床屋談義”の雰囲気が好きなのだ。美容院の若い女性とでは”床屋談義”をしても始まらない。

時代の流れで仕方がないのかもしれないが、昔の夢追い人の老人には寂しい。しかし、老人といっても最近の前期高齢者は美容院での整髪にあまり抵抗がないらしい。床屋さん好きの後期高齢者がいなくなれば、街からあの赤と青の看板が姿を消える日がくるのも近いかもしれない。

遺骨収集は特定法人に任せず、国民運動で行え

2016-05-15 04:59:07 | 2012・1・1
戦後71年目にしてやっと海外で戦没された方々のご遺骨収集を推進しようという政府の基本計画がまとまった。新聞報道によると来年度(平成28年)から情報を集め、現地調査をして、平成36年までの9年間に集中的にご遺骨を集中しようという計画だ。遅きに失する感だが、お国のために亡くなられた方々のご遺骨が放置されたままの状態にあることは許されない。これで英霊の霊も浮かばれるというものだ。

先の大戦で海外で戦没された日本人の数は210万人といわれ、うち、ご遺骨が故国に帰還されたのは127万柱が、半分近くが南寧のジャングルや極寒のシベリアの地に眠っている。戦後、政府は昭和30年(1955年)、運輸省(当時)航海練習船大成丸をラバウルなど南方各地に派遣してご遺骨収集に当たったことがあるが、短期間の航海で収集されたご遺骨も限られていた。その後も民間ボランティアの協力で毎年収集は続けられているが、国をあげての本格的な収集事業は始めてである。

政府の計画案を見て心配なのは、実際のご遺骨収集は、国の指定する法人が実施するという点である。実は2003年、僕が関係している東カリマンタン(インドネシア)の慰霊碑が、厚労省の委託を受けた遺族会の手であやうく取り壊されかけたことがある。まったく現地の事情に疎く、現地語も出来ない人たちの杜撰な調査によるものだった。

ご遺骨の収集は関係者の高齢化で難しくなってきている。しかし、東カリマンタンの例でいえば、現地の事情に通じている遺族会の代表は98歳でご健在、慰霊碑の保存について現地の方とも連絡を取られている。この地では戦争末期の7月、上陸してきた連合軍との戦闘で1万人近くがなくなられ、数千人のご遺骨が収集されていないといわれているが、その調査さえ行われていない。慰霊碑の体験から僕は、厚労省は特定の日本遺族会だけに事業を任せるのだけではなく、現在の現地事情に詳しい関係者にも声をかけ、国民運動でご遺骨収集に当たるべきだと思う。

"朝(あした)には夕(ゆうべ)を謀れず” ある先輩の死

2016-05-14 05:15:59 | 2012・1・1
昔、勤務していた新聞社から最新の社内報が届いた。馬齢のせいなのだろう。近頃はまず目にするのは「旧友会」(OB会)の訃報欄である。この号にも今年1月から3月までに他界された10人の方の名前が載っていた。そのうち5人はかって一緒に仕事をした先輩や仲間たちで、2人は同期入社組である。

老妻の実家は葬儀の際”浄土真宗の”(あした)には紅顔ありて夕(ゆうべ)には白骨となる”というお経を唱える。人の一生は”朝には夕を謀れず”(李家.陳情の表)というのである。まさにその通りだ。亡くなられた先輩の一人、Hさん(91)とは昨年11月の「旧友会」総会で奥様同伴の元気なお顏を拝見したばかりであった。

Hさんは僕が入社して間もなく社会部の駆け出し記者だった頃「デスク」で、取材の手ほどきをしてくれた。その後、部署が違い再び一緒に仕事をしたことはなかったが、退職後、僕がインドネシアを中心にフリーな仕事をしていた時、Hさんが戦争中、大東亜省直属の専門学校「拓南塾」を卒業、ジャワで勤務していたことを知った。「拓南塾」は戦争中、東京の小平にあり、大東亜共栄圏各地での軍政要員を育成する機関だった。

「拓南塾」出身者もみな90歳を超え、聴き取り調査が難しくなってきた。昨年Hさんにお会いした時、ぜひ、昔の話を聴かせて頂きたいとお願していたのだが、果さず残念である。まさに”朝には夕を謀れぬ”年代になってきた。余生を大切にしなくてはならないと、考える今日この頃である。

僕のエミレーツ航空ファースト.クラス搭乗記

2016-05-13 05:15:15 | 2012・1・1
升添要一東京都知事の多額な海外出張費に絡んんで産経新聞が全国48都道府県に対し、知事がファースト.クラスを利用しているかどうか調査したところ升添知事のほか岩手、茨城、群馬、愛知各県の知事が利用していた。残りの43府道県知事は、条令などで利用が許可されていても、一段料金が低いビジネス.クラスを利用していた。それほど料金が高いので、倹約志向の知事さんはファースト.クラスの利用を避けているのかもしれない。

年寄りの自慢話を一つ。一介の市井の徒である僕が2008年11月、関西空港からUAE(アラブ首長国連邦)のドバイまで往復、同国のエミレーツ航空の豪華なファースト.クラスの席に収まり旅行した。詳細は小ブログ(11月22日)に書いているが、僕の場合は1962年、新聞社の中東移動特派員として同国(当時は独立前で、英国の保護領で休戦海岸)を訪れた際、同僚のカメラマンが撮りまくった写真数百枚ががドバイ首長一族の同航空会長の目にとまり思わぬセレブの招待の旅になった。

ファースト.クラスは畳一畳半ほど隔離されたコンパートメントで、エコノミ―クラス症候群など心配がない12時間の快適な旅だった。同じ飛行機には元経済企画庁長官、相沢英之氏ご夫妻(夫人は女優の司葉子さん)が乗られていたが、ビジネスクラス。僕らは心ばゆいなにか悪い事でもした気持ちだったのを憶えている。、

ついでに飛行機での自慢話をもう一つ。1962年11月、僕とカメラマンが乗った羽田からロンドン行きのUAR(アラブ連合)航空機(コメット82人乗り)は、最初の給油地香港まで、乗客は僕ら二人きりで、操縦席まで案内されVIP待遇であった。言ってみればジェット機を借り切ったような空の旅であった。

銀座に来なくなった燕(つばめ)

2016-05-12 05:18:43 | 2012・1・1
”柳青める日、燕(つばめ)が銀座に飛ぶ日”で始まる「夢淡き東京」(サトー八ロー作曲 小関祐二作曲 昭和22年)は、戦後間もない時代に青春時代を送った焼跡派世代には格別な想いがある。僕の記憶ではまだ東京は中心部でも、あちこちに空襲の焼跡が残り、食糧難、娯楽も映画ぐらいしかなかった時代だが、ラジオの”のど自慢”番組から、この歌が流れてくると、なにかほのぼのと明るい気持ちになったものだ。

戦前、銀座はといえば柳並木が有名で「銀座の柳」(西条八十作詩 中山晋平作曲 昭和7年)という歌があるほどだ。子供だった僕の記憶にもあり、親に連れられて”銀ブラ”を楽しんだものだ。銀座一帯は昭和20年1月27日の白昼飛来したB-29の大群の空襲にあい、ほとんど焼失したが、柳並木は戦後でも季節が来れば芽が青ばみ、燕も飛来していたのだ。

その燕が最近すっかり銀座では見られなくなったようだ。先日テレビを見ていたら毎年、銀座の燕を観察している街の学者の話で、今年銀座で巣作りしているのは僅か2か所にすぎないという。そしてカメラが、その巣作りの模様を写していたが、デパートの蛍光灯の裏側とかタクシー会社のガレージの天井で何か痛ましい。

ここ数年、僕は銀座へ出かけたことがない。歳をを取り購買欲がなくなり、グルメにもあまり関心がなくなってきたせいかもしれない。燕の銀座への飛来がすくなくなった話を聞いて、燕も同じように老いてきたのかと苦笑した。しかし、最近、銀座には中国から”爆買い”の大群が押し寄せてきているそうだ。銀座も変わったものだが、郷愁がない銀座には老人は行きたくない。