「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

大丈夫なのか "豊年万作"に無関心になってきた日本人

2017-09-20 04:54:12 | 2012・1・1
僕の好きな文部省唱歌の一つに「日本の四季」(作詞 堀沢周安 明治43年)がある。なかでも、その3番の歌詞の1節「二百十日も事無く過ぎて、村の祭り太鼓が響く、稲に実がなり、日和が続く」が好きだ。今日は秋の彼岸の入りだが、ちょうどここ10日間の農村風景を歌ったものだ。

農水省の8月末の稲の作況概況によると、早場米段階での稲の出来は”平年並み”という予想だったが、九州、四国、本州、北海道と史上初めて横断、被害をもたらした台風18号の襲来で、最終的な出来はどうなるだろか。戦前、わが国が農業国だった時代には、日本人はもっと、今年のお米がどうなのか関心を持ったものだった。

70年前、昭和22年9月末の亡父の日記補遺には「豊作、豊作の呼び声に世相はやや落ちつき、人心も静まってきたようだが、配給は、いぜんは円滑ではない。早堀の馬齢薯も麦も姿をみせず、アメリカ”お情け”の小麦粉と缶詰だ。米が一升(1キロ強)が65円(今の時価にして3500円)サツマイモが一貫目(3.75キロ)が10円もする」とある。

今は有り難い世の中である。台風18号各地に被害をもたらしも、今年の米の出来は大丈夫なのか話題にもならない。食糧受給率が4年続いて40パーセントを割っても日本人には危機感がない。70年前、アメリカからのララ物資で、やっと飢えを忍んだ僕ら世代には、これで大丈夫なのか心配である。そういえば、今年のわが町の”鎮守の神さま”のお祭りは、雨のせいか、太鼓の音も聞こえてこなかったが、これも心配だ。

「老人の日」を「敬老の日」に戻せ

2017-09-19 06:18:00 | 2012・1・1
昨日9月の第3月曜日は「老人の日」の国民の祝日であった。昔、「敬老の日」が9月15日に固定されていた時には覚えていたが、ハッピー.マンディになってから、老人の僕でさえ、「老人の日」がいつだか判らなくなってきた。それより、昨日まで僕は、祝日の名称は「敬老の日」だと思っていたが、正式には「老人の日」なのである。内閣府のHP(ホームページ)には「老人の日」と明記されている。しかし、僕のパソコンの前のカレンダーには「敬老の日」と書いてある。調べてみたら「敬老の日」が「老人の日」に変ったのは老人保健法が改正された2001年以来、すでに10年以上も経っているのだ。

同じ屋根の下に住む孫たちから昨日”敬老弁当”(写真)が届いた。”老人弁当”ではない。これまで気がつかなかったが、何故、「老人の日」に変えたのか。HPで今年の「老人週間」(9月15日―22日)のスローガンを見たら”みんなで築こう安心活気ある健康長寿社会”とあり、そのスローガンの一つには、高齢者知識、経験を生かし就労.社会に参加、ボランテァ活動を進める”とある。「老人の日」は、漠然と僕が思っていたような年寄りをいたわり、敬う日ではないのである。

80歳代後半の老人のヒガミかもしれないが、本来、日本人社会の美徳とされてきた「敬老」の精神が最近、薄れてきた感じがする。テレビ番組で「老人週間」の特集として、増える高齢者の犯罪を放送していた。かって「敬老週間」だった時代では考えられないことだ。年寄りの甘えではなく「老人の日」は本来の「敬老の日」に戻すべきである。”老い”は、人生において、順番にやって来るものである。


国会解散 新党の出鼻をくじく安倍総理の政治的カンどころ

2017-09-18 05:57:14 | 2012・1・1
10月衆院解散説がもっぱらである。マスコミの報道を総合すると、安倍総理は28日から始まる臨時国会召集後すぐに国会を解散、衆院選挙を10月中に実施するようである。安倍総理が何故この時期に選挙をするのかー。多分、今が国内外の情勢から判断してチャンスと判断されたおであろう。もちろん、11月上旬のトランプ米大統領の初来日を控えており、選挙では圧勝を考えてのことだ。

十年一昔というが、第一次安倍内閣が国民の衆望を担って発足しながら、たった1年で”難破”してから10年である。2007年9月12日、安倍総理は国会で所信表明した僅か2日後である。僕は当時安倍内閣を終始、小ブログで批判していたが、安倍総理の突然の辞任を受けて”切れた、がきっ子総理”と厳しく非難している。

10年前の辞任のよきは、安倍総理は”局面打開”とい言葉を多用していた。閣僚の不祥事が続き、当時野党第一党、民主党代表小沢一郎氏の”政治的な”ゆさぶり”もあった。”局面打開”が必用だったのであろう。しかし、今回は”森友””加計”問題もなんとはなく一段落して、マスコミの支持率も上昇に転じた。野党、民進党は新代表に前原誠司氏が決まったが、党幹事長に予定していた山尾志桜里氏の”いろごと”で人気は低落、離党者が続いている。

安倍総理の頭の中には小池百合子都知事と連携する若狭勝氏の「日本ファーストの会」があるのは間違いない、若狭氏は先日、新党を頭にして政治塾を発足させた。民進党の離脱者との間の”合併”も進んでいるようだ。問題は、新党への小池知事のコミットメント次第であるが、その前に出鼻をくじこうというのが、総理の判断なのかもしれない。北朝鮮がミサイルを飛ばし、アラ―トが鳴り響く物騒な世の中である。選挙もよいが、しっかりとした国の舵取りもお願したい。

「インドネシア独立のために戦った」103歳日本女性の自伝出版

2017-09-17 04:50:43 | 2012・1・1
明日18日の「敬老の日」を前に明るいニュースだ。戦前、戦中、戦後,インドネシアと日本で波乱の人生を歩まれてきたシテイ.アミナ夫人(日本名長田周子さん)が10月4日の103歳の誕生日を前に、自伝「インドネシア独立のために戦った、ある日本人の物語」をこのほどジャカルタでインドネシア語で出版された。夫人は今、東京の病院で介護入院されている。

シティ夫人については、すでに小ブログ(2011年6月19,20,21日)で3回にわたって紹介しているが、戦前の昭和10年甲府出身の夫人が、当時では珍しい日本女子大学の学生時代、はるかスマトラ(蘭領東インド)から明治大学に留学中のマジッド.ウスマン氏とセットルメント運動で知り合い結婚した。ウスマン氏は、当時、祖国を和蘭から独立させようと運動している志士であった。ウスマン氏の故郷は西スマトラのパダンで、長田さんは独特の伝統的文化を持つ地で結婚生活を送られていたが、16年、大東亜戦争が勃発、蘭印によってジャワの抑留所へ収容されたが、17年3月、ジャワへ進攻した日本軍によって救出され故郷のパダンに帰った。

戦争中、スマトラは第25軍の軍政下にあったが、ウスマン夫妻は軍政監部の顧問として、独立実現のために協力していたが、18年3月、東條内閣は「大東亜戦争政略大綱」の御前会議で、スマトラを含む全インドネシアを独立させないと決定した。このため第25軍にとっては、独立運動のウスマン夫妻の存在が問題になり、二人を内閣府顧問という名前で、ていよく日本に移住させられた。大東亜共栄圏会議が開催された18年秋である。夫妻は二人の子供を連れてシンガポール経由、日本に向かったが、途中、台湾沖で乗っていた箱根丸が沈没されたりして12月、日本に到着した。

夫妻はシテイ夫人の言葉を借りれば”幽閉”された形でしばらく、東京の帝国ホテルに居住していたが、”幽閉”が長引いたため、シティ夫人の実家のある甲府への移住が許された。夫妻は20年7月7日、甲府空襲にもあっている。やがて終戦。しかし、戦後の混乱の中で、すぐには帰国できず、ウスマン氏がスマトラへ帰国したのは26年で、氏は戦中戦後の異国での心労から47歳で早逝されている。

僕は戦争中パダンで日本語紙「スマトラ新聞」の記者だった先輩(故人)を通じて、ウスマン夫人と知り合った。まだ出版された本は読んでいないが、、日本ではほとんど紹介されていないスマトラ軍政の知られざる一面が書かれてある。とくに夫人が証言されているスマトラ義勇軍創立にかかわる話は面白い。ジャカルタで発行されている邦字紙「じゃかるた新聞」(9月15日)によると、夫人の自伝は千部発行され、一部9万5000ルピア(約800円)。問い合わせ先は,電話(インドネシア021-3192-6978)オポール出版。

Jアラ―ト の常態化 と”狼少年”の故事

2017-09-16 05:49:11 | 2012・1・1
北朝鮮が昨日またも北海道の頭越しに弾道ミサイルを発射、襟裳岬東方2200キロの大平洋洋上に落下させた。幸い、被害は無かったが、度重なる暴挙、挑発に怒りを感じる。しかし、一方では、ミサイル発射と同時に鳴り響くJアラーと(全国瞬時警報システム)サイレンに国民は怒りとともに不安や戸惑いを感じているのではないか。

テレビの画面でJアラーとと同時に各地のその時の模様を放送していたが、札幌郊外の輪厚ゴルフ場ではANA(全日空)選手権が40分間プレーが中止され、選手やギャラリーが一時、クラブハウスに避難したという。若干、不謹慎かもしれないが、40年前、有珠山の噴火の際、伊達カントリーでプレー中、噴火に遭遇、退避した時を想い出した。噴火は視覚で危険がわかるが、ミサイルは判らないし、クラブハウスに逃げたからっといって安全だろうか。

北朝鮮の暴挙がいつまで続くのか不明だが、ミサイルの発射が今後も続き、そのたびにAアラートの発令が常態化してくると、新幹線が停止するなど日常の経済活動にも影響がでてくるのではないだろうか。それ以上に怖いのは。国民の間にイソップの”狼少年”の故事のように、政府がJアラーとを発令しても、”またか”という思いが出てくることだ。

誰も弾道ミサイルの被害を受けたことがない。しかし、政府の指針に基づいて小学校の生徒が頭を抱えて、机の下に潜り込む退避訓練は、昭和17年、ドウリットルの本土初空襲後、当時、小学生だった僕らが受けた訓練と変わりがない。政府はJアラートについて、国民が”狼少年”の故事にならないよう内容を検討すべきである。

Goton Royong(相互扶助)とインドネシアの老人介護  

2017-09-15 04:58:59 | 2012・1・1
中部ジャワ(インドネシア)のテマングン(Temanggung)という町に住む元義勇軍(PETA)のバンバン.プルノモさん(90)の近況について、最近、同地を訪れた関西在住のSさんから病床のプルノモさんの写真を添えてメールを頂戴した。メールによれば、プルノモさんは数年前から体調を崩されていたが、昨年、両眼を失明されてしまった。しかし、お元気で、Sさんがプルノモさんからの所望で持参した戦争中の軍歌を二人で合唱した。プルノモさんの一番の愛唱歌は「海行かば」だそうである。

プルノモさんについては小ブログで何回か紹介させて頂いたが、インドネシア国軍参謀総長で、戦後駐日大使もされたバンバン.スゲン将軍の実弟で、ご本人も戦争中の日本軍下の義勇軍の兵士であった。1965年の9.30事件に連座して投獄されるなど苦労されたが、大の日本好きで、数年前までは自宅を改造して「寺小屋」を作り、若い人たち日本語を教えられていた。

Sさんはジャワを訪れると、テマングンでは入手できない介護用のオムツなど持参する気配りだが、生涯独身だったプルノモさんの介護は近所のワルン(小さな食堂)の女主人などが24時間交代で面倒を見ている。ジャワには昔からGoton Royong(相互扶助)という制度があり、困った時にはお互いに助け合う。町の道路修理なども村人総出で行う。僕もインドネシアを車で歩いて何回もこの姿を見たことがある。Sさんは、プルノモさんの介護は、まさに、このGoton Royongによるものだと指摘されてきた。

核家族になる前の日本の社会にも戦前は隣組、さらに古くは長屋の熊さん、八さんで代表されるような、助け合いのしきたりがあったが、今、都会ではなくなってしまった。

土俵入りのない大相撲なんて 横綱日馬富士休まづ頑張って!

2017-09-14 05:09:19 | 2012・1・1
今場所一人横綱の日馬富士が四日目にして二敗、波乱の場所となった。初日から白鵬、稀勢の里、鶴竜の三横綱が”ケガ”で欠場、ほかに碧山、佐田の海が休み寂しい場所だったのに、二日目に今度は人気力士の高安、宇良が土俵上でケガをして欠場してしまった。そこへきての日馬富士の不調である。テレビの画面で両腕、両かかと包帯まきの白馬富士の姿は痛ましい。しかし、白馬冨士が欠場してしまっては横綱不在、土俵入りが見られなくなる。相撲が取れるなら、負け越ししてでもよい。白馬冨士頑張って!

何故こんなに大勢の力士がケガで欠場するのか?相撲解説者の舞の海秀平さんによると、ここ数年の力士の重量化に原因しているのではないかという。確かに調べてみるとそうだ。今の幕内力士は、勢、魁聖の192センチを最高に190センチ代が7人もいる。また、体重も212キロの逸ノ城を筆頭に180キロ以上が5人もいる。昔、力士の身長を尺貫法で数えた時代には、大男は六尺(181㎝)三十貫(112キロ)であった。ちなみに昭和の大横綱、大鵬は187センチ、153キロ、戦前の69連勝の大横綱、双葉山は180センチ、135キロしかなかった。

戦前の記録映画を見ると、力士がみなスリムである。そして身体に包帯が見られない。昨日テレビの画面で幕の内以上の力士を調べたら、八割以上の力士が腕足に包帯やサポーター、リストバンドをしている。そして、その数が多いほど成績が上がっていない。NHKのBS放送で幕下以下の力士の取り組みを放送しているが、かって幕内力士だった大型の力士がケガや病気で大勢落ちてきている、重量化、大型化は必ずしも勝負には関係ないようだ。

現代人のグルメ 秋刀魚(さんま)の炭火焼き

2017-09-13 05:11:50 | 2012・1・1
秋刀魚の季節である。文字どおり秋のサカナである。僕の住む目黒区でも区主催の「目黒SUNまつり」(通称)が、16日の日曜日、駅近くの田道公園を中心に開かれ、気仙沼から届くさんま5000匹が炭焼きにして配られる。落語の「目黒のさんま」のゆかりから、目黒には「さんままつり」が二つあり、本家?の目黒駅前商店街(品川区)主催のほうは、この10日に終わったばかりである。新聞によると、宮古市から届いたさんま7000匹が、炭火焼で供されたが、早朝から行列ができるほどの盛況であった。

落語噺「目黒のさんま」は、江戸時代、目黒に鷹狩にきた殿様が茶屋で食べたさんまの味が忘れられず、屋敷に帰って所望したが新鮮過ぎて不味かったという内容だったと思うが、「さんままつり」の炭火焼きも、現代版「目黒のさんま」だ。世はグルメ時代で美味しいものがあふれている。そんな中で食べるのがさんまの炭火焼きである。

僕は70年来の目黒の住人であり、産湯も目黒川沿いの病院であげているが「さんままつり」には出かけたことがない。あまりさんまへの郷愁がないのだ。落語噺にちょっと反するが、戦前昭和の時代、僕の住んでいた五反田駅周辺には大森海岸から朝とれたばかりの江戸前のさかなを売りに来ていた。今の季節ならハゼがいくらでも食べられた。都民が「さんま」「さんま」と言い出したのは、小津安二郎の映画「秋刀魚の味」「昭和37年)頃からではなかっただろうか。そういえば、この時代頃から、冷凍技術が発達して、都民も遠くの美味しい魚が食べられるようになった。

それにしても今年は不漁だそうで、東京では一匹200円もする。しかし、残念ながら80老では朝から並んで食べる元気はなくなってしまった。

夕焼け小焼け

2017-09-12 18:21:00 | 2012・1・1

♯ 夕焼け小焼け (作詞 中村雨虹 作曲 草川信 大正12年)
  夕焼け小焼けで陽が暮れて山のお寺の鐘が鳴る
  お手てつないで皆帰る カラスも一緒に帰りましょう
夕焼けがあまりにもきれいだと老妻が夕食の準備の手を休めて台所の窓ごしにとった一枚。この歌が世に出た大正の時代には、わが家のこのあたりでも歌のような風景があったかもしれないが、今は夕焼け小焼けだけである。

東京メトロが使えない”シルバー.パス”

2017-09-12 06:47:05 | 2012・1・1
昨日、夏の戻りを感じさせる暑さの中、足の悪い夫婦二人で近所の住区センターへ”シルバーパス”券の更新へ出かけてきた。東京都では住民税非課税の70歳以上の高齢者を対象に、年1千円支払えば1年間都内を走るバス、都営地下鉄などが”無料”で利用できるサービスがある。老人がいつまでも社会活動できるようにと170億円の補助金を出している有り難い制度だ。

わが家はこの制度のお蔭で助かっている。家から5分ほど歩くと目黒通りにバス停があり、10分おきに目黒駅行きのバスに乗れる。そのうち何本かは乗り換えなしで東京駅まで行ける。近くに私鉄の駅もあって渋谷駅まで10分で行けるが、ここ10年以上、多少時間はかかっても”シルバーパス”を利用することが多くなった。

”シルバーパス”の難点は、同じ都内を走る地下鉄でも都営地下鉄は使えるが、東京メトロは使用出来ないことだ。東京の地下鉄網は世界に冠たるものだが、都営とメトロの料金体制も違い互換性がないため不便である。メトロも株式の半分近くは都がもっており”準”都営だが、都営地下鉄の莫大な累積赤字が災わいして一本化出来ないと聞いている。

2020年の東京五輪に向けて都営とメトロ地下鉄の一本化進んでいるようだが、是非実現してもらいたいものだ。都営大江戸線にもメトロ丸の内線にも同じ名前の「本郷三丁目」駅があるが、地下ではつながっていない。駅の略称も都営がE08で、メトロがM21と別。これでは略称を便りに旅行する外国人客には不便極まる。僕ら老人も”シルバーパス”がメトロ地下鉄にも適用されれば大助かりだ。小池知事の”株”もさらに上がると思うのだが。