内田樹(たつる)さんの「学ぶ力」という文章があります。
子どもの学力が低下していると言われているのを受けて
「学力」とはについて書かれています。
内田先生が、中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものだそうです。
ここに挙げてある3つは、
私たちの生涯学習、自己実現に必要なエッセンスがまとめられていると思ったので、
一部転記させていただきます。
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「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。
無知の自覚といってもよい。これが第一です。
「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。
こう人が、本来の意味での「学力がない人」だとわたしは思います。
ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。
第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、だれに教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。
いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。
書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。
街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。
生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。
ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
こちらには学ぶ気がある。
師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。
しかし、それだけでは学びは起動しません。
もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
(中略)
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。
ブログ 内田樹研究室より引用
http://blog.tatsuru.com/2011/09/02_1151.html
http://blog.tatsuru.com/2011/09/02_1151.html