ある方から、被爆者は、寿命が長いと聞きました。
もちろん、放射性物質を浴びた後、白血病になる確率は、高くなるが
直後の危険を過ぎてしまえば、
元気に過ごしている人も多いと。
推測だが、被爆者は、医療費が無料なので、
わり合い多くの方が、健康診断を定期的に受けていて
早めに病気を発見して治療しているからではないかということでした。
私の母も14歳で被爆しましたが、
77歳までバイタリティーに溢れ、多少の病気もしながら、
元気に生きてくれました。
被爆2世の私も、小さい頃から漠然とした健康への不安がありましたが、
健康に恵まれ、中年期の今も元気にしています。
母は、夏になると、夜中にうなされていました。
長崎市の爆心地近くで
学徒動員で働いていた姉を探しに焼け野原に入り
少女の母の足元に「水、水」と赤く焼けただれた人が
這いつくばってきた、
その光景を母は、忘れられずにいました。
「水をあげたら、死ぬからあげたら、ダメ」
と人から聞いて、水をあげなかったし、
火傷し、瀕死の人々が怖いと思ってしまった自分を
後々、責めていました。
あのメガネをかけた黒焦げの人は、やっぱり大好きな姉さんだったかもと、
ずっと、悔やんでいました。
あの当時メガネをかけた少女は珍しく、
「姉さんは、文学少女だったから、生きていたら、作家になったに違いない」と話していました。
今にして思うと、
その罪悪感を拭うためだったのか
灼熱の太陽の下、幼い私の手を引いて
毎夏、平和祈念公園にお参りに行きました。
蝉しぐれの暑い夏がやって来ると、
私の中の戦争が甦り、
眠れなくなることもあります。
放射性物質の影響は、消えたとしても
その時に受けた辛い辛い思い出は、消えないまま。
母がNHKの原爆に関するインタビューを受けたのは、亡くなるほんの数年前。
戦争が終って、実に60年ほど経ってからでした。
人に語ることがどれ程辛かったのか、
この年数が物語っています。
母の遺品から、そのインタビューのビデオが見つかりましたが、
私は、いまだに見ることが出来ません。
母は、亡くなっても
あの母の「辛い思い」は、娘の私の中に生き続けています。
私は、放射性物質だけでない、
それに伴いどれだけ「辛い思い」をしたかも、
とても重要だと痛感しています。