conparu blog

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末期症状の骨肉

2008-12-22 01:03:00 | 歴史

絢爛と文化熟成の貴族社会も、平安末期になると私利私欲が蔓延り、争乱の社会不安を引き起こすようになりました。

皇室も上皇の院政によって、いとも簡単に天皇の在位を縮められたり、退位させられたりで、天皇の権威が低下するとともに、後継の天皇との間に抜き差しならぬ険悪な感情が芽生えてきたとしても、自然な成り行きだったと思います。

平安時代は熟成期を過ぎて終息期に向かったのです。一つの時代は草創期に始まって、建設期ー熟成期ー終息期ー改革期ー草創期と巡り、新しい時代の幕開けを繰り返しながら平成の世へと繋がってきたと言えます。

天皇の外戚である摂関家が次々と姫君を入内させ、皇室との関係を強め維持しようとする働きは、皇位の継承で波乱が生じたときに、己の側を優位に導こうと戦いになります。保元の乱はまさしくこのような状況下で起こりました。

崇徳天皇は父帝鳥羽上皇の意によって、二十歳で天皇の地位を追われ、鳥羽上皇と美福門院得子との間に出来た近衛天皇に譲らねばなりませんでした。白河法皇が崩御してからは、崇徳帝も影が薄い存在になりました。

近衛天皇はたしか九歳で即位したと思いますが、十六歳(十七歳とも)で夭折してしまいます。しかも崇徳上皇が期待していた子、重仁親王の方には皇位が及ばず、いろいろ揉め事がありながらも異母弟後白河天皇に決まってしまいます。

更に追い討ちをかけたのは、後に後白河帝からその子二条天皇へと帝位が受け継がれたときでした。崇徳院は焦って来ました。「今のうちに何とかしなければ」・・・

父に疎まれ、出生の疑いを背負わされて、時代から振り落とされようとしている崇徳院自身に、時代は皮肉にも似たような男を引き合わせました。
違うところは父親の溺愛の中で育ったという事でしょう。

関白忠通という年の開いた異母兄がいるのに、父忠実は弟の左大臣頼長を溺愛のあまり、また忠通との仲もよくなかったこともあるが、弟頼長を家督の長にしようとしました。とうぜん兄忠通との間で雲行きが怪しくなってきました。そしてとうとう保元の戦端の火蓋は切られたのです。

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