後白河天皇はワンポイントリリーフの救援ピッチャーだったはずですが、政務に就いているうちに止められなくなってしまいました。自分の下した政令で国を動かせるのですから、これほど冥利に尽きることはありません。周りが何を言っても聞く耳を持ちませんでした。
長い間蚊帳の外にいた親王時代を思うと、せっかく掴んだ幸運を手放す気にはなれなかったのです。当時が疎ましくさえ思えたに違いありません。
天皇が思いのままの政治を行え得た裏には、関白忠通亡き後の摂関家に代わる、藤原信西という男がいました。
学問を修める家筋で、家格は摂関家に遠く及ばないのですが、知力を買われた上に、妻が後白河天皇の幼少時の乳母であったことで、重用されることになりました。
時代の変遷は頂点に立つ帝と、政治に新しい施策で臨む信西という二人を引き合わせました。棚ぼた新政が始まったわけです。
(信西の妻が乳母を勤めたのは、後白河天皇の児ではなく、後白河天皇の幼少時でした。文中訂正しました。)
保元の乱で崇徳上皇に組した貴族や武家たちが、追放されたり処刑されて政治の舞台から消えました。
同時に藤原頼長の広大な領地も没収され、類従の貴族も追放されたことで、藤原摂関家の威信は地に落ちてしまいました。
崇徳上皇と後白河天皇は同母兄弟なのですが、正当性からすれば崇徳上皇が優位でしょう。本来なら傍系である後白河天皇が皇位につける筈は無かったのですが、棚ぼたで転がり込んだラッキーボーイでした。鳥羽上皇の子といっても、政治的には蚊帳の外のぶらぶら遊んでいる人でした。
そんなプレーボーイが何で天皇になれたか?この頃は天皇の在位が短かったようで、崇徳上皇も父である鳥羽上皇から二十歳で退位させられ、異母弟の近衛天皇が位につきました。が、十六歳で死んでしまいます。
あまりにも若くして亡くなったので、次の天皇を誰にするかで揉めました。
本来なら崇徳に戻るか、崇徳の子がなるところですが、そうはなりませんでした。
崇徳上皇はよほど嫌われていたのでしょう。ここがキーポイントです。誰に、と言うと、父の鳥羽上皇と関白忠通であり、近衛天皇の母、美福門院でした。
美福門院には幼くして母を亡くし、養護していた皇室ゆかりの子がいました。後の後白河天皇の子です。
聡明の評判高いその子を天皇に推挙したところ、・・・「だったら、その親が先だろう」と言う者がいて結局、後白河天皇が棚ぼたになったと言うわけです。
皇室は時々おかしな現象が現れます。陽成天皇の御時も皇后の兄である、藤原基経の計らいで皇位を退けさせられ、代わって、これも傍系で本来なら舞台に乗せられない光孝天皇が皇位を継ぎました。
関白忠通の亡き後は~つづき