稚拙ながら中世の時代の変動期を書き出してみたのですが、時代の局面は連綿と次の時代に連結していくのだ、ということを言いたかったわけです。
平治の乱後、平氏の隆盛は目を見張るものがあります。
ライバルのいない独壇場で、清盛は太政大臣に登りつめ、中宮に参内させた娘徳子が後の安徳帝を産むことで、天皇の外戚にまでなっていました。
一門が殿上人となった平氏の治世は、揺るぎないものと、誰もが思ったでしょう。
風前の灯であった源氏の遺児が、図らずも助命にあって成長し、歴史の流れを振り返ったとき、胸に去来するものは何であったろうか。
既に藤原摂関時代は崩壊して消滅し、武家の平氏が貴族体制を引き継いだけれど、登りつめれば驕りの出るのは同じこと、平氏に不満を持つものも増えてきます。
伊豆に流された頼朝が、時代の終わりを見ていたとしても不思議ではない。
合い呼応するかのように、関東武者の中で密かな願望が生まれてくる。
頼朝が伊豆に流されて来たことは、歴史の配慮と云うべきか、新しい時代の萌芽が頼朝の眼を通して描かれてきた。
勿論、監視下に置かれた頼朝一人で描けるものではない。都の様子を逐次知らせる者がいたからこそ、リアルに平家打倒の狼煙が上がり得たし、武家政治という誰も想像したことのない、新しい統治の構想を練ることが出来たのだと思う。
細々と書くのはこの辺にとどめるが、平安朝の終焉に導いた争乱の道糸が、武士の台頭とともに政治体制を大きく変える事になった。
結論として、源平合戦が院政も含めた貴族政治に終止符を打ったことである。
国を二分しての大掛かりな戦いが、体制の改革を招き、鎌倉に武家政治の実権を打ち立てた。
ここに保元の乱から発した乱世の、大きなうねりが収束したと言えるのではないか。 おわり
世の流れは変転として定まるところなし。一滴の雨水が、やがて岸辺を洗う奔流となり、大河に合流し、とうとうと脈打つ大海に注ぎ出て、再び一滴の元に返っていく・・・。
貴族の力が衰退し、朝廷の威光も昔日の輝きを失った今、清盛と義朝という武士の頭領が登場してきました。
戦いを通して、自分たちの武力こそが時代を変えていくのだ、という思いが強まっていきます。
清盛たちが熊野詣で留守の間に、信頼と義朝軍は院の御所三条殿を襲い、後白河院と同母姉の上西門院を二条天皇もろとも内裏に軟禁して、王手飛車取りの絶好妙手の布陣を敷いた。その一方、逃亡した信西を打ち、その首を京大路に晒した。
しかも軟禁した上皇方に迫り、信頼は大将に、義朝は播磨の守に任じられた。播磨守であった清盛は領国を取り上げられたことになる。
一大事は熊野の清盛にも伝わりました。王手をかけられた清盛は九州に逃れようとしましたが、周りの諌めもあって思いとどまり、兵を集めながら京に向かいます。
清盛は十万の大群を率いて京に上り、義朝軍と対峙したものの、上皇と天皇をとられている以上、決定的な攻撃が出来ないでいる。このままでは勝ち目がない。
この状況を打破しなければ、十万の大群と云えども張子の虎である。
清盛という武将は、冷静に状況判断ができ、策力に優れているようだ。
清盛は一計を案じた。軟禁されている後白河院や二条天皇の奪還を狙ったのだ。
手立てを考え手筈を整えて、事の次第を院や天皇の側近に内通者を通して伝えた。
成功裏に救い出すには、市中に放火したり、騒ぎを起こして気を反らし、その隙に乗じてやるのが常套だったらしく、清盛もそうしたのである。
奇策は成功した。女衣を被った天皇は女車に乗って脱出し、上皇とともに六波羅の清盛邸に保護された。
形勢優位となった清盛軍は、勢いを得て大軍で攻めます。
信頼と義朝軍は戦力が劣勢のまま六条河原の決戦で敗北した。
信頼は首を打たれ、義朝は敗走の途次尾張で落命した。源氏の命運も尽きようとしている。
頼朝、牛若丸(義経)の命も風前の灯となって清盛の手中にあった。