一つの時代を生き抜くということが、凄烈で覚悟のいる時代だと、戦乱の中世を覗いて知りました。今の時代では想像もできないほど、一族の命運も家運も一蓮托生の主筋に身を任せて、浮沈の大河の彼方に立とうと懸命な姿は、勇ましく美しくもあります。
保元の乱で勝ち残った後白河院や信西は新進の気鋭を持って、新時代に相応しい政治を行おうとしましたが、美福門院の勧めもあって後白河院は退位し、二条天皇が即位しました。
貴族社会は極度に衰退の速度を早めて、経済的にも疲弊していましたから、信西は各地の国衙に命じて増税の布令を出しました。
信西という人は利に敏いところがあって、保元の乱で敗者となった頼長の広大な領地を国の直轄地とした後、その管理は信西自身が一手に収めたので実利は相当のものでした。
全ては信西の思いのままに行くかに見えたのですが、増税の実際の納付者は武士集団ですから、彼らの間で猛反発が起こりました。今の世と状況が似ていますね。
信西にはもう一つ、人事による不安を自らの手で作り出していたのです。先の乱で手柄を立てた平清盛と源義朝に対する褒賞が、不公平不平等だったからです。
信西は清盛を可愛がっていました、性格的にも似たところがあって、親近感があったのかもしれません。清盛には播磨守を叙任したのに対し、義朝には左馬守という御幸行列の引き立て役を与えました。義朝は当然不満を抱きました、内心快くありません。
信西ともう一人、政治に携わる藤原信頼という人がいました。信頼は馬廻り役で義朝の上司に当たる人でした。
信西は信頼を目の上のたんこぶのように疎ましく思い、ことごとく昇進の妨げをしたので、信頼の方も恨みを抱いていました。信西は人の恨みを買うほどに、意に介さないものには非情でした。
しかし、信西には清盛がついているのでうかつには手を出せません。
信頼と義朝は手を結んで事を起こそうと機会をうかがっていました。
そしてその日が来るのです。清盛と重盛がそろって熊野詣をした隙を狙って、兵を挙げました。クーデターです。