conparu blog

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悲運の人

2008-12-24 00:46:00 | 歴史

左大臣頼長は父忠実に可愛がられ、兄関白忠通を家長から追い落とそうとします。実際には父忠実の思惑から発したことで、父の言いなりに動いていたのかも知れません。

しかし頼長は父忠実の後ろ盾があればこそ強気になっていましたが、兄忠通の権勢の前には、思うように事態が進展しません。
崇徳上皇は、いらいらしているこの頼長に目をつけました。「私と一緒になって、後白河天皇と関白忠通から正道を取り戻そうではないか」と呼びかけました。

頼長にとっても渡りに舟とばかり、上皇の申し出に賛成しました。戦力として源為義、頼賢、頼仲、為仲、為朝などの源氏親子が、平氏からは平忠正が呼応して参集しました。

おそらく父忠実が裏で手を打ったのだと思います。とにかく実戦部隊が馳せ参じたので、崇徳上皇も大喜びです。一方、後白河天皇の側でも動きは急でした。

関白忠通の下には平清盛、源義朝といった血気盛んな若手が集まり、京の都は一触即発の急遽騒然となりました。戦いには先ず戦議というものが有ります。

戦略戦法を講ずることですが、崇徳上皇側の為義が「明け方早く寝込みを襲おう!」と奇襲戦法を述べたのに対し、「寝込みを襲うのはフェアじゃぁないよ、もう少し遅い九時ごろにしよう」と、拒否されました。

頼長もこれに賛同しました。ところが戦法は、瞬く間に相手の陣営の知るところとなります。崇徳側にいた中にスパイが入り込んでいたのです。清盛と義朝は、「それなら我々が先に寝込みを襲おうではないか」と若者らしく即決しました。

決行の朝です、寝込みを襲われた頼長の陣営はなす術もありません、戦う前に負けてしまいました。
崇徳上皇の悲運は止まるところがありません、西海の讃岐の国に配流となって二度と都に戻ることは叶えませんでした。

配流地の崇徳上皇の嘆きと怒りは如何ばかりであろうか。一説には髪はぼさぼさで櫛も入れず、手足の爪も伸びるにまかせて鬼人のようであったとか。

都の空を仰ぎつつ、『憎き者は後白河、この身は讃岐の穢土に朽ちぬとも、霊魂は永劫にこの地に在りて都人に祟るであろう!』髪が逆立っていたとの説もある。

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