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☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

ゴジラ対メカゴジラ

2014年09月05日 13時18分53秒 | 邦画1971~1980年

 △ゴジラ対メカゴジラ(1974年 日本 84分)

 英題 Godzilla vs. Mechagodzilla

 staff 原作/関沢新一、福島正実 監督/福田純 特技監督/中野昭慶

     脚本/山浦弘靖、福田純 撮影/逢沢譲 美術/薩谷和夫

     キングシーサー・デザイン/井口昭彦 音楽/佐藤勝

     主題歌/ベルベラ・リーン『ミヤラビの祈り』『メカゴジラをやっつけろ』

 cast 大門正明 田島令子 平田昭彦 小泉博 佐原健二 岸田森 睦五郎 草野大悟

 

 △特撮とボク、その47

 ようやくゴジラシリーズの迷走も終わりを告げるかと、やや期待した。

 というのも、メカゴジラはある意味画期的なものだったからだ。

 くわえて、こまっしゃくれたがきんちょが登場しないということや、

 往年のシリーズをささえてきた役者たちの内3人が復帰することもあり、

 もしかしたら原点へ回帰しようという覚悟のあらわれなのかとも感じられた。

 ところが、どうだろう。

 出てきちゃったよ、キングシーサー。

 いくらなんでも米軍が上陸して悲惨な戦闘をくりひろげた沖縄だよ、

 そこの聖獣にして古代琉球はアズミ王族の守護神という設定なのに、

 なんでキングとかって英語がついてんだろね?

 くわえて、

 唐突に登場するインターポールといい、ブラックホール第三惑星人といい、

 当時流行りの単語を使いたがる東宝特撮映画の悪いところが大手をふって登場し、

 怪獣とはなんにも関係なさそうな活劇が盛り込まれてくるのは、

 ちょっと勘弁してほしかったりするんだよね、実は。

 ところで、この頃は沖縄が返還されてまでそんなに月日も経ってなくて、

 海洋博とかが開催されたりして沖縄の注目度は抜群に上がってた。

 でも、結局は、うちなんちゅの作った物語でないことは、

 キングシーサーのありようからしてありありとうかがい知れるわけで、

 こういうところ、

 やまとんちゅの考えはちょいとばかり浅かったんじゃないかしら。

 くわえて、

 いつまでも正義の味方でいるゴジラやアンギラスの、

 なんとも情けない設定がここでも続けられていることに、

 いいしれない悲しみをおぼえてしまうのだよ、ぼくは。

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ゴジラ対メガロ

2014年09月04日 16時34分24秒 | 邦画1971~1980年

 △ゴジラ対メガロ(1973年 日本 82分)

 英題 Godzilla vs. Megalon

 staff 原作/関沢新一 監督・脚本/福田純 撮影/逢沢譲

    美術/本多好文 特殊技術/中野昭慶 音楽/眞鍋理一郎

    主題歌/子門真人

        『ゴジラとジェットジャガーでパンチ・パンチ・パンチ』『メガロをやっつけろ』

 cast 佐々木勝彦 林ゆたか 森幹太 富田浩太郎 大月ウルフ 川瀬裕之 中島元

 

 △特撮とボク、その46

 いくらなんでも伊吹吾郎っていう役名はないだろうに。

 伊吹吾郎は、

 1966年に第7期生東宝ニューフェイスとなって、東宝俳優養成所に入ってる。

 1968年にはフリーになって、テレビドラマ『さむらい』でデビューした。

 さらには、1969年、ぼくも読んでたさいとうたかをの劇画『無用ノ介』のテレビ化で、

 堂々の主役に抜擢されてる。

 つまり、1973年の時点ではテレビや映画に活躍してるわけで、

 それとおんなじ役名が東宝の35ミリ映画の主役に使われるなんて、ちょいと考えられない。

 それだけ、砧の地は、世間と隔絶してたってことなんだろか?

 そうかもしれない。

 特撮映画というだけでなく、この時代は邦画の全体が時代遅れになってた。

 映画会社や撮影所そのものが弛緩した状態に追い込まれてた。

 斜陽化のせいだとみんなが口をそろえるけど、はたしてそうなんだろうか?

 まあ、そのあたりの分析はおいといて、

 団塊の世代に幼稚園児を観客に想定したような映画作りは、

 そもそも無理があったんじゃないかしら?

 というより、

 観客層を下げざるを得なかったことが、もはや末期的な症状だったんじゃないかと。

 カブト虫の化け物メガロがどうして海底王国の怪獣なのかも理解ができないし、

 正義の怪獣ゴジラを迎えに行くのが役目のようなジェットジャガーって、

 いったいなんなのかわかないどころか、

 ウルトラマンの造形を忘れちゃったの?と聞きたくなるようなデザインだし、

 レムリア大陸だの、シートピア海底人だのといった名称については、

 言及するのも疲れちゃいそうになる。

 かつて、

 たとえば、因習深い東北の地において婆羅陀魏山神を創り上げ、

 なんといっても、小笠原諸島大戸島の呉爾羅大明神を創り上げた東宝が、

 どうして、20年後にメガロを作ってしまうのかが、ぼくにはまるでわからない。

 やっぱり、円谷英二の死と渡辺明の引退が、大きく影を落としてるんだろうか?

 ともかく、ヒロインすら出てこない映画ってあるのかしらと、

 ぼくにとっては、苦行のような鑑賞だったわ。

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地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン

2014年09月03日 23時31分34秒 | 邦画1971~1980年

 △地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン(1972年 日本 89分)

 英題 Godzilla vs.Gigan

 staff 監督/福田純 脚本/関沢新一

     撮影/長谷川清 美術/本多好文 特殊技術/中野昭慶

     ガイガン・デザイン/水氣隆義 音楽/伊福部昭

     主題歌/石川進『ゴジラマーチ』『ゆけ! ゆけ! ゴジラ』

 cast 石川博 梅田智子 菱見百合子 西沢利明 村井国夫 清水元 葦原邦子 中村是好

 

 △特撮とボク、その45

 なんだ、ひし美さんが出てるんだったら、名画座で観とけばよかった。

 ていうか、ひし美ゆり子が出演しているという以外に、

 この作品について語るべきものはなにもないような気がするんだけど、

 こういうことをいったら怒られるんだろうね。

 ちなみに、

 ひし美さんが菱見百合子からひし美ゆり子に改名したのは、

 この作品が封切られた半年後で、

 東宝を退社してフリーになると同時だったらしい。

 おでこをだしたアップにして、鬢をくるくるとカールさせるのは、

 ちょうどこの頃に流行った髪型だ。

 昔の写真を見ると、うちの母親も当時はほとんどこのセットをしてる。

 ま、そんなことはともかく、

 不良怪獣ガイガンの名前の由来は、

 石原裕次郎たちの日活青春路線、つまりナイスガイだって話だけど、

 ほんまかいな?

 当時から「なんだよ、サングラスした怪獣って」とはおもったものの、

 不良やチンピラの必須アイテムを怪獣にしちゃうところで、

 すでに東宝っぽくないんだよな~。

 ただ、このガイガンは正確にいえばアンドロイド怪獣のようで、

 ゴキブリ星人もといM宇宙ハンター星雲人が人工的に造ったものなのね。

 知らんかったわ。

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怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス

2014年09月02日 01時29分31秒 | 邦画1971~1980年

 △怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス(1972年 日本 85分)

 staff 監督/飯島敏宏 脚本/千束北男(飯島敏宏)

    撮影/稲垣涌三 美術/池谷仙克 視覚効果/飯塚定雄

    特殊技術/大木淳、中野稔 音楽/冬木透

    主題歌/子門真人、荒川少年少女合唱隊『ダイゴロウ対ゴリアス』

    挿入歌/桜井妙子、スタジオ・シンガーズ『ララバイ オブ ダイゴロウ』

        子門真人『ぼくのおじさん』『そしてエピロオグ』

 cast 犬塚弘 三波伸介 小坂一也 小林昭二 浜村純 小松政夫 天地総子 田坂都 人見きよし

 

 △特撮とボク、その44

 実は、ぼくはこの映画をまったく知らなかった。

 そういえば、ハラペコ怪獣とかいうのがいたな~という記憶はあるんだけど、

 それがどんな怪獣だったのか、まったく見当もつかなかった。

 まあ、むりもないよね。

 この作品が封切られたのは、ぼくが中学1年生の冬休みだったんだから。

 当時、ぼくはかなりなませがきで、

「子供向けの怪獣映画はもういいわ」

 というようなことをうそぶく青二才だった。

 背伸びしようとおもってたわけじゃないけど、

 ちょっとずつ大人になっていこうとしている真っ最中で、

 小説もちょいと背伸びして江戸川乱歩全集や横溝正史全集を買うのが楽しみだったりした。

 文庫本は創元推理文庫を手にとったり、ハヤカワポケットミステリを買ったりして、

 いっぱしの小説読みのような気になり、

 映画も洋画を観に行き出したりして、特撮映画からは足を洗ったような感じだった。

 こういう突っ張った時代は数年しか続かず、

 結局、大学に入ってからは特撮映画をむさぼるように観に行ったりしたんだけど、

 そうした数年間の穴ぼこの時代に、この作品が封切られた。

 だからまるで知らなかったんだけど、

 とはいえ、当時、この作品を観ていたとしても、好印象はあまり持てなかっただろう。

 子供向けってことは、犬塚弘の発明おじさんの設定でよくわかるんだけど、

 ダイゴロウに身を入れて食糧を買い与えてやろうと奮発する三波伸介のちょっと理解できない。

 長屋住まいの気の好い鳶職ってのはわかるものの、

 それじゃあ人情物の時代劇だよ~ってくらい、なんだが時代がアンバランスだ。

 子供たちが映画を観たとき、三波伸介とその周辺の人々はどんなふうに感じられたんだろう?

 たしかに三波伸介は芸達者で、ここでもいい味を出してるんだけど、

 それだけに、なんだか浮いちゃっててかわいそうな気にもなる。

 これは役者たちみんながそうで、なんだか無理してないか?と。

 ともかく、

 このカバとムーミンを足して怪獣の背中をくっつけたようなダイゴロウは、

 ぼくにとっては辛い怪獣のひとつになった気がするんだよね。

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ゴジラ対ヘドラ

2014年09月01日 12時42分15秒 | 邦画1971~1980年

 ◇ゴジラ対ヘドラ(1971年 日本 85分)

 英題 Godzilla vs Hedorah

 staff 原案・監督/坂野義光 特殊技術/中野昭慶 脚本/馬淵薫、坂野義光

    撮影/真野田陽一 美術・ヘドラデザイン/井上泰幸 音楽/真鍋理一郎

    主題歌/麻里圭子withハニー・ナイツ&ムーンドロップス『かえせ!太陽を』

        作詞:坂野義光、作曲:眞鍋理一郎、編曲:高田弘

 cast 山内明 木村俊恵 柴本俊夫 吉田義夫 岡豊 渡辺謙太郎 岡部達 勝部義夫

 

 ◇特撮とボク、その43

 少年の時代、この作品が、最後に観た怪獣特撮映画になった。

 その後は『日本沈没』だの『ノストラダムスの大予言』だのと、

 おなじ特撮物でもじゃっかん観客層の異なるものは観たんだけどね。

 でも、上記2本の作品とこの『ゴジラ対ヘドラ』は相通ずるものがあって、

 ぼくとしては、ちょっとだけ贔屓にしてる。

 ゴジラ(呉爾羅)という怪獣をおもうとき、

 ジュラ紀から白亜紀にかけて稀に生息していた海棲爬虫類と陸上獣類の中間生態を持つ生物で、

 原水爆の実験さえなければ、小笠原諸島大戸島の荒魂はこんな化け物にはならなかったはずだ。

 またヘドラという怪獣をおもうとき、

 日本中に垂れ流されていたヘドロに宇宙から飛来してきた鉱物が混ざり、

 きわめて稀な化学反応をひきおこして生物化し、本能に近い意識まで産んでしまったわけだけど、

 それもこれも日本が公害なんてものを生じさせなければ、

 ヘドラなんていう怪獣は生まれることはなかったはずだ。

 つまり、ゴジラもヘドラも共に人間の我儘と強欲の生み出した怪獣にほかならず、

 この両者に文明や文化が破壊されるのは、いわば、人類に対する自然の復讐でもあったろう。

 とはいえ、

 当時、小学生だったぼくは、そんなことなんかちっとも考えてなくて、

 行ったこともないゴーゴー喫茶なるところは、こんな気持ちの悪いところなのかとおもった。

 今にしてみれば、当時流行のサイケデリックは、

 結局、日本人には合わなかったのかもっておもえる。

 というのも、物語に出てくるゴーゴー喫茶もサイケに近いものであってサイケではなく、

 麻里圭子の歌は凄いようにおもえるけど、

 実はとってもまじめで気恥ずかしいくらいに主張してて、

 いかにもメッセージソングよろしく歌い方も手振りもとっても爽やかだったりするからだ。

 1 ※1水銀 コバルト カドミウム 鉛 硫酸 オキシダン

     シアン マンガン バナジウム クロム カリウム ストロンチュウム

   汚れちまった海 汚れちまった空

   生きもの皆 いなくなって 野も 山も 黙っちまった

   地球の上に 誰も 誰もいなけりゃ 泣くこともできない

   ※2かえせ かえせ かえせ かえせ みどりを 青空を かえせ

     かえせ かえせ かえせ 青い海を かえせ かえせ かえせ

     かえせ かえせ かえせ 命を 太陽を かえせ かえせ

 2 ※1(繰り返し)

   赤くそまった海 暗くかげった空

   生きもの皆 いなくなって 牧場も 街も 黙っちまった

   宇宙の中に 誰も 誰もいなけりゃ 泣くこともできない

   ※2(繰り返し)

 でも、当時のぼくはまだまだがきんちょで、

 怖そうなお姉さんがやけに過激な感じで歌ってた歌がものすごく耳に残った。

 そんなこともあって、いまだにこの歌は歌えるんだから、トラウマなんだろね、きっと。

 ただまあ、

 こういう主張性の強い作品っていうか、アクの強い作品はゴジラ物ではめずらしく、

 ぼくはたしかに贔屓だけれども、当時の東宝の上層部は眉をひそめたんじゃないかって気もする。

 そういう雰囲気に包まれながら制作されたものは、どうしてもどっちつかずになっちゃう。

 そもそも、ゴジラに公害という主題をもってくることが強引だったのかもしれないけど、

 それでもやるんだということになったんなら、

 ゴジラに空を飛ばすとかいった子供の喜びそうな新しい技を繰り出すんじゃなくて、

 子供がゴジラに対して助けを呼ぶような正義の味方物を設定するんじゃなくて、

 もっと悲劇的な世界を追い求めてもよかったんじゃないかともおもったりする。

 たしかにゴジラの腕をへし折られても戦い続ける凄まじさはこの作品にしかないけど、

 それ以前にゴジラはすでに温厚な怪獣さんになっちゃってしまったものだから、

 どうしたところで、ヘドラをやっつけてくれる人類の味方というくくりでしかない。

 そういう点、このサイケなゴジラ映画は、なんとも中途半端なものになっちゃってる。

 ともあれ、ぼくの小学校時代は、この作品と共にほぼ終わった。

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宇宙怪獣ガメラ

2014年08月20日 16時56分24秒 | 邦画1971~1980年

 ▽宇宙怪獣ガメラ(1980年 日本 109分)

 英題 Gamera, Super Monster

 staff 監督/湯浅憲明 脚本/高橋二三

    撮影/喜多崎晃 美術/横島恒雄 音楽/菊池俊輔

    主題歌/マッハ文朱『愛は未来へ…』作詩:やまひさし、作曲:菊池俊輔

 cast マッハ文朱 小島八重子 小松蓉子 工藤啓子 高田敏江 桂小益 斉藤安弘

 

 ▽特撮とボク、その31

 あまりにも痛ましくて、観ていられない。

 大映の倒産から9年、ようやく徳間大映として復活したものの、

 あきれ果てるよりも涙が出てくるほどの出来で、

 いったいこの映画は作る意味があったんだろうか?

 宇宙海賊船ザノン号だけが(誰のデザイン?)新たに登場するほかは、

 宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999まで登場させて、

 東映もモーションピクチャーカメラまで貸し出して、

 なんの得があったんだろう?

 あまりにも悲しい。

 いったいどれだけの観客動員だったんだろう?

 あまりにも辛すぎる。

 でも、

 考えようによっては、

 ぼくらのガメラと大映の怪獣たちが晒しものになったわけではない。

 おそらく、たぶん、もしかしたら、

 過去の大映のガメラとその戦いぶりをもう一度、

 封切館で観られる喜びがあったのかもしれない。

 そうでなければ、

 往年のガメラの雄姿を大銀幕で観ることは叶わなかったろうし、

 過去の作品を繋ぎ合わせてる分、

 ガメラの出てこない物語部分を観なくて済んだという結果にもなった。

 が、しかし、単なる繋ぎ合わせではなく、

 新しい物語、それもいろんなタイアップによって、

 どうにもこうにもせるせない物語が作られているため、

 なにが悲しくてこの映画に出たのだろうという役者さんたちの、

 あまりにももの悲しい演技を観なくてはならないというのは、

 往年の特撮を知るぼくたちには、涙をもってしか応えられない。

 ガメラのフアンや関係者たちを悲しみのどん底に叩き落としたこの作品を、

 この先、観直す機会は来るんだろうか?

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ガメラ対深海怪獣ジグラ

2014年08月19日 01時49分49秒 | 邦画1971~1980年

 △ガメラ対深海怪獣ジグラ(1971年 日本 88分)

 英題 Gamera vs. Zigra

 staff 監督/湯浅憲明 脚本/高橋二三

    撮影/上原明 美術・ジグラデザイン/矢野友久

    助監督/明瀬正美 音楽/菊池俊輔

 cast 笠原玲子 八並映子 坪内ミキ子 三夏伸 吉田義夫 坂上也寸志 佐伯勇 夏木章

 

 △特撮とボク、その30

 配給はすでにダイニチ映配になってて、

 大映日活ともにすでに青息吐息になった時代、

 この旧大映ガメラの最終作品は封切られた。

 当時、日本映画は雪だるまが坂を転げ落ちるように衰退していってて、

 子供心にも映画館の人けのなさは不気味だった。

 ただまあ、

 八並映子のビキニ姿とミニスカートはかなり刺激的ではあったけど。

 ていうか、ジグラのお粗末さにくらべて八並映子はどぎつかった。

 とてもじゃないけれど、

 日本月世界基地研究員とはおもえないようなお色気ぶりで、

 まあ実際、スタイルはいいし、

 その前後の映画の役どころはかなりセクシーなものだったしね。

 ちょっとびっくりするのは、

 この作品の封切りが7月で、大映の倒産は11月なんだけど、

 八並映子はこれに出演したあと『成熟』『穴場あらし』『悪名尼』の3本に出、

 大映最後の作品に主演していることだ。

 すごい勢いで映画出演を果たしてることになる。

 それにしても、鴨川シーワールドとのタイアップなのに、

「シャチに子供を食べさせるわよ!」

 とかいうセリフを吐いちゃうんだから、当時の映画は凄い。

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原子力戦争

2014年05月30日 20時20分03秒 | 邦画1971~1980年

 ◇原子力戦争(1978年 日本)

 当時のポスターを見ると、サブタイトルに「lost love」とある。

 なんじゃこりゃ?っておもうし、

 さらには本編のタイトルにはその表示がない。

 なんで?とまたおもう。

 いったい誰のlost loveなんだろ?

 原田芳雄だろうか?

 それとも風吹ジュンなんだろうか?

 わからない。

 ま、それはそれとして、時代を感じるな~。

 おそらく福島の原発なんだろうけど、

 原田芳雄が胸をおっぴろげたまま門からぶらぶら入っていこうとする場面がある。

 そこだけ、妙にドキュメンタリまがいな撮影になってるんだけど、

 たしかに物語の展開上、

 原田芳雄の恋人のトルコ嬢と心中したと見せかけて殺されたとおぼしき、

 原子力発電所の技師を呼び出した山崎なる男に詰問しようとするのはわかるし、

 ある種のデモンストレーションとして突入を図ろうとするのもわかるし、

 そうすることによって原田芳雄のなんも考えないチンピラの無鉄砲さを、

 ここで一気に表現しようとするのもわかるんだけど、

 やっぱり中途半端になる危険もあるし、

 むつかしいよね。

 にしても、

 大学に行ってるはずの市会議員の娘がトルコ嬢になってて、

 しかも心中したってことにされてるにもかかわらず、

 村人はいっさいそのことを噂しないばかりか、

 漁業組合長をしてる兄貴までその陰謀に加担してるってのはどうよ。

 旧家の面目を保つってこともあって妹殺しを認めたんだろうか?

 まじか?

 技師の妻の山口小夜子にいたっては、

 原田芳雄に自宅でも浜辺でも抱かれるのに、

 さらに原子力専門の化学者ともできてるっていう恐ろしい展開で、

 にもかかわらず、旦那が残した原発事故の証拠書類とネガを、

 原田芳雄に安易に手渡しちゃうというのはいったいなにを考えてるんだか。

 まじか?

 村人たちにしても、

 森の中で原田芳雄を追い掛け、結局は口封じをするっていう展開は、

 原発の補助金の方が漁業よりも事故の不安よりも大切だとする気持ちなわけだよね。

 まじか?

 ていうような内容で、

 やけに原田芳雄は胸を見せつけるんだけど、なんでだろう?

 ていう疑問はどこかにすっとんじゃうような感じだった。

 そうしたあたり、佐藤慶がなんとも人間臭くて、

 奥さんと子供を置いての単身赴任の記者だから、

 案の定、地元の女とできちゃうわけで、

 でも、いつかはその女を捨てて本社に返り咲きたいっていう欲望があって、

 そのためにはせっかくつかんだ原発事故の記事が差し戻されても、

 テレビ局や他の新聞社に持ち込むというほどの正義感はない。

 いやまったく人間臭い。

 ちょっと気になったのは、原子力専門の大学教授かなにかの岡田栄次で、

 いかにもモノがわかったように、

 炉心溶融について「チャイナ・アクシデント」という単語を使う。

 アメリカでブラックユーモアのように使われていたものを紹介したという設定だけど、

 これはちょっとね~。

「チャイナ・シンドロームじゃない?」

 とかいっちゃいたくなる。

 そもそも、アメリカだからチャイナ・シンドロームなわけで、

 チャイナ・アクシデントだったら中国でなにか起こらないといけなくなっちゃうでしょ。

 映画の『チャイナ・シンドローム』がなかったら広がらなかった言葉なんだけど、

 どうやらそれまではたしかにブラックユーモアとしては多少知られていたらしい。

 この『原子力戦争』の方が『チャイナ・シンドローム』よりも一年早く製作されたから、

 こういう言葉のふしぎな伝えられ方をしちゃったんだろね。

 ただ、1978年当時、こういうゲリラ的かつ挑戦的な映画が作られたことは、

 まじな話、すごいとおもうし、よくやったな~っていう気もする。

 ただ、これって実は、

 当時の話だから原子力発電所になってるわけで、

 中世のヨーロッパとかだったら、

 悪魔の棲んでる城かなにかがあって村人が洗脳されちゃってて、

 そこに恋人を追い掛けてきた旅の男が登場して、

 結局のところ巨大なちからに立ち向かうんだけど返り討ちにあっちゃった、

 みたいな話とおんなじなわけで、

 物語の骨格ってのは変わらないんだな~ともあらためておもった。

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金環蝕

2014年01月09日 23時14分47秒 | 邦画1971~1980年

 ◇金環蝕(1975年 東宝 155分)

 staff 原作/石川達三『金環蝕』 監督/山本薩夫 脚本/田坂啓 撮影/小林節雄 美術/間野重雄 音楽/佐藤勝

 cast 仲代達矢 京マチ子 三國連太郎 宇野重吉 中村玉緒 高橋悦史 西村晃 久米明 神田隆 北村和夫 大滝秀治 中谷一郎 嵯峨善兵 山本學 加藤嘉 永井智雄 神山繁 内藤武敏 根上淳 鈴木瑞穂 前田武彦 峰岸徹 夏純子 笠原玲子 安田道代(大楠道代)

 

 ◇1965年、九頭竜川ダム汚職事件表面化

 事件そのものがなんだかうやむやの内に消えてしまった感があって、どうもしっくりこないものだから、それが映画になってもいまひとつしっくりこない。政界に知られた金貸しが主役になるのはいいんだけど、宇野重吉があまりにも上手に銭にも女にも汚く、容貌すら汚らしく演じてしまっているために、映画全体がなんとも不潔に見える。もちろん、それが山本薩夫の狙いには違いないんだけど、リアリズムだけが先行してしまった感じかな~。

 ダム建設についての汚職ということはわかるんだけど、でもどうにも山本薩夫らしい外連味に欠けるというか、ダムの映像そのものがもうすこし利用できなかったんだろうかと。出たり入ったりの人間模様ばかりが描かれて、全体的に単調なものになってしまっているのは否めない。

 たしかに役者たちはそれぞれのモデルをほうふつさせるし、それなりに熱演してはいるものの、モデルに似せようとするあまり、物語そのものの持っている面白味に興味が向かなかったんじゃないかって、そんな気もするんだよね。

 ただ、こういう汚職事件はなにもびっくりするようなものではないし、政治と金と女は常に語られてきたことで、いまさらどんなえぐいことが出てこようと驚くにはあたらない。いや、事実はもっとおぞましいかもしれないし、小説が発表された時代や、映画が制作された時代はこれでもよかったのかもしれないんだけど、いまや、この程度の露出ではちょっとおとなしい気がしないでもない。

 とはいえ、こういう政界スキャンダルの物語はほとんど観られなくなっちゃったけどね。

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成熟

2013年12月01日 02時55分05秒 | 邦画1971~1980年

 △成熟(1971年 日本 86分)

 staff 監督/湯浅憲明

     脚本/高橋二三 企画/斎藤米二郎 撮影/喜多崎晃

     美術/矢野友久 音楽/菊池俊輔 助監督/小林正夫

 cast 高橋惠子 篠田三郎 八並映子 伴淳三郎 赤座美代子 菅野直行 早川保

 

 △山形県庄内平野

 鼠ケ関のみこし祭りに鶴岡のお化け祭り、

 さらには関根恵子の庄内平野に対するいくつかのナレーションと、

 ほんと、観光PR映画に徹してるのはなんでかといえば、

 簡単な話、地元の観光協会とのタイアップにほかならない。

 この作品は大映の最後の映画で、

 いろんなところで、伝説めいた話が語られてる。

 完成したとき当時の社長だった永田雅一が、

 すでに倒産が決まっていたため、

「そうか、できたか」

 と、涙に噎んだとか、

 予告編で関根恵子がヌードになっているのに本編でそれがないのは、

 スポンサーになってた観光協会に遠慮したのだとか、

 なるほど、そういうこともあったかもしれないんだけど、

 大映の倒産は、この映画のスタッフのほとんどが知らず、

 ほんとのところは新聞記事になったときに初めて知ったという人も少なくない。

 ただ、永田雅一の感激についてはぼくはなにも知らないから、

 へ~そういうこともあったんだ~というのが感想なんだけど、

 関根恵子が海辺の岩場で下着を抜いでたカットが本編に入れられてないのは、

 編集の際に監督の湯浅憲明が「うまくつながらないな」といって、

 単にカットしたというのがほんとうのところらしい。

 にしても、当時、製作日数は限られてて、

 実働をどれだけ減らして場面を撮り切るかっていうのが正念場で、

 たとえば、佳境、

 先生役の早川保が先生を辞めて東京へ帰ってゆく列車の場面とかも、そうだ。

 ホームの見送りに間に合わなかった関根恵子が、

 なんでかわかんないんだけどお化け祭りの衣装を着て車内に現れ、

 早川に惜別するんだけど、車窓から眺められるという設定の海岸道路では、

 見送りにやってきた学生連中が乗ってきたオートバイを並走させてて、

 まあ、車窓から早川が関根恵子とふたりで手をふり、

 なんとも青春映画の定番中の定番といった別れのクライマックスになるんだけど、

 この車内の撮影をするとき、湯浅憲明は「2日がかりで撮る」といった。

 スタッフたちは頭を抱えた。

 列車は借り切って撮影することになってたから、

 それを2日間も借り切るなんてことはできるはずがない。

 このとき「一発OKで決める」と宣言したのが、助監督の小林正夫だ。

 大映ではチーフ助監督がスケジュールを管理しているから、

 撮影の順番もすべて小林鬼軍曹が取り仕切る。

 小林さんは時刻表を睨み、

 トンネルの多い路線のどこでどのカットを撮るかを考え、

 すべて「ぶっつけ本番で臨むように」と監督に進言、覚悟を決めさせた。

「撮影時間は、正味1時間半」

 まるで黒澤明の『天国と地獄』のようなぶっつけ本番だが、

 黒澤組と湯浅組には、マルチカメラとワンキャメという恐ろしく大きな差があった。

 マルチならば役者たちはぶっとおしの芝居をすればいいんだけど、

 ワンキャメではそうはいかない。

 ワンカット撮れば、次のワンカットのためにカメラを移動し、計測し、照明を決める。

 そんなめんどくさい作業をたった1時間半で済ませなければならない。

「やってください」

 小林さんは仏のように愛らしい顔ながらスケジュール管理は絶対だった。

 スタッフとキャストの死に物狂いの撮影が始まり、結果、奇跡的に撮り終えた。

 大映が根性を見せた最後の瞬間だったともいえるんだけど、

 この映画の場合、エキストラの動員も半端なものではなく、

 協力してくれる市民は老若男女が次々に学生服を着、白髪の学生まで現れた。

 すべてスポンサーになった観光協会の人集め資金集めの労力の賜物だが、

 そうした中に、鶴岡市内の有名な和菓子屋が2軒、あった。

 で、関根恵子と篠田三郎がデートに行ったとき、饅頭を食べる場面が設定された。

「これ、おいしいのよ」

 と、関根恵子が饅頭を差し出すのだが、

 2軒の和菓子屋はそれぞれ自慢の饅頭があり、皮の色が白と茶だった。

 篠田三郎が手にして食べたのは味噌饅頭すなわち茶色で、

 こちらだけを「おいしい」というわけにはいかない。

 そこで、関根恵子が「白い方もおいしいのよ」といって勧めるカットが追加された。

 さて、この場面だが、

 本編ではどのあたりで観ることができるのか、

 はたまた、伝説となった関根恵子の海辺のヌードと同じく、

 つながり具合を優先させた編集のためにカットされてしまっているのか、

 これは、鑑賞者だけが「ほう、そうか」といえる秘密にして、

 ここでは、いわずにおこう。

 ともかく、

 夏のかぎられた期間内で、

 庄内平野の祭りという祭りを撮影し、神社仏閣を撮影するというのは大変で、

 大映最後の撮影部隊は、凄まじい勢いでそこらじゅうを駆けずり回った。

 よくもまあ完成に漕ぎつけたものだが、

 撮り終えたシャシンは、いうなれば王道の青春映画で、

 こちらが気恥ずかしくなるくらいに純粋で、垢抜けない、

 60年代の後半から70年代の前半にかけての日本の若者が、そこにいる。

 ちなみに、

 北海道川上郡標茶町磯分内に生まれ、東京都府中市で育った関根恵子は、

 府中市の市場で大映のスチールカメラマンの目に留まってスカウトされ、

 中学3年生の1年間、大映の研修所で演技を鍛えられ、卒業と同時に大映に入社、

 1970年『高校生ブルース』で主演デビューを果たし、

 以後『おさな妻』『新・高校生ブルース』『高校生心中 純愛』『樹氷悲歌』『遊び』と、

 たった2年間で、立てつづけに主演をこなし、

 大映レコードから『おさな妻』の主題歌A面『愛の出発』B面『はじめての愛』まで出し、

 文字どおり、大映の看板女優になるという快挙を果たしているんだけど、

 上記のどの作品も当時の世相を反映してか、陰鬱な印象の作品ばかりだった。

 ところがどうだ、大映の最後の作品になったこの『成熟』だけは、

 それまでの陰湿かつ性的な暗さはケシ飛び、おもいきりのびのびとし、

 なんだか「ビバ!青春!」とか大声で叫んじゃいそうな、

 明朗快活ところによりHといった青春巨篇になってる。

 その明るさで倒産も吹き飛ばしてほしかったけど、

 時代は冷徹に過ぎていったんだね。

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風立ちぬ(1976)

2013年09月04日 02時41分05秒 | 邦画1971~1980年

 ◇風立ちぬ(1976年 日本 94分)

 staff 原作/堀辰雄『風立ちぬ』

     監督・潤色/若杉光夫 脚本/宮内婦貴子

     音楽/小野崎孝輔 撮影/前田米造 美術/大村武

 cast 山口百恵 三浦友和 芦田伸介 宇野重吉 夏夕介 松平健 森次晃嗣

 

 ◇いざ、生きめやも

 中学生になる頃まで、

 実家の2階の端、その窓際に昔ながらの机と椅子と本棚が置かれてた。

 紫檀だか黒檀だかであつらえた三点セットだったようで、

 本棚は奥行のない箪笥のようで、両開きになってて、中には古い本が並んでた。

 祖父の使っていたものだから、大正の初期のものだろう。

 ぼくが物心がついたときには誰も使う人がおらず、

 5月になると、机の上に、兜や五月人形が飾られるくらいなものだった。

 高校生になってようやく貰い受け、自分の部屋に運び込んだ。

 そのとき、本棚の整理をしたんだけど、

 セピア色に変わった本の中に、堀辰雄の文庫本を見つけた。

『風立ちぬ・美しい村』と『菜穂子・楡の家』だった。

 裏表紙をめくると、母親が万年筆で書き込んだらしく、

 買い求めた本屋の名前と、手に入れた日時と、母親の名前があった。

 どうやら、母親は堀辰雄が好きだったようで、

 ちょっと調べてみたら、母親が本を買って数年後、映画が封切られてた。

 久我美子主演の『風立ちぬ』で、1954年(昭和29)の作品だった。

 ところが、設定が戦後に直されてて、結核も癒える時代になってた。

 ということは、堀辰雄の原作はかなり変えられたってことなんだろう。

(なるほど、母親の時代ってのは、ともかく戦前の空気を一掃しようとしてたんだな)

 てなこともおもったんだけど、

 山口百恵主演のこちらの作品は、戦前から戦中にかけての話に直されてた。

 ほお、時が遡ってるんだとおもった。

 とはいえ、原作は昭和8年から11年頃という時代設定だから、

 それでもまだ、原作どおりってわけじゃない。

 なんだか、

 松平健のバンカラぶりや早稲田の同級生どもの反戦ぶりが、ちょいと濃すぎる。

(百恵ちゃん演じる節子と、友和さん演じる達郎の、純粋な映画にしてほしかったな~)

 というのが率直な感想だ。

 けど、おもってみれば、ちょっとふしぎな感じなんだけど、

『風立ちぬ』が原作どおりに映像化されたことは、一度もないんだね。

 いや、それにしても、反戦云々がなかったら、

 この作品は、なんだかすごく現代的な青春映画だった。

 ぼくは、百恵ちゃんの映画は『としごろ』『伊豆の踊子』『潮騒』は観たけど、

 その後はどうも足が向かず、かろうじて『泥だらけの純情』は観た。

 ほかの作品は観てない。

 だから、この作品がキネマ旬報の表紙になったとき、

「え?キネ旬の表紙が、なんでまた?」

 と、妙な違和感すらおぼえたものだ。

 生意気な盛りのぼくに、百恵&友和の青春映画は青臭すぎたんだろう。

 なもので、この作品が封切られたときのことは憶えてるんだけど、

 中身については、このほど、初めて体験した。

 芦田伸介と宇野重吉がちゃんと締めてくれてた。

 あ、それと、

 脇役はみんな若くて、いや、ほんとに、ポール・ヴァレリーのいう、

「Le vent se lève, il faut tenter de vivre 」

(風が立った。みんな、生きようじゃないか)

 って感じで、生きなくちゃだめだっていう気持ちが伝わってくるのに、

 主役のふたりはそうじゃなくて、最後に三浦友和が呟く、

「風立ちぬ。いざ、生きめやも」

(風が立ってしまった。生きようか。いや、そうもいかないのかなあ)

 てな感じに包まれておるんですわ。

 ひさしぶりに軽井沢にでも行ってみようかしら。

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旅の重さ

2013年08月04日 19時50分22秒 | 邦画1971~1980年

 ◎旅の重さ(1972年 日本 90分)

 英題 Journey into solitude

 staff 原作/素九鬼子『旅の重さ』

     監督/斎藤耕一 脚本/石森史郎

     撮影/坂本典隆 美術/芳野尹孝 音楽/よしだたくろう

 cast 高橋洋子 岸田今日子 三國連太郎 横山リエ 中川加奈 秋吉久美子 高橋悦史

 

 ◎今日までそして明日から

 ぼくの田舎の映画館では、封切の作品も上映されたけど、

 ちょっと前の映画もときたま落ちてきた。

 当時でいう2番館だ。

 これがなんでか知らないけど、思い出に残る映画ばかりだった。

 そういう映画の中に、斎藤耕一の作品がいくつかある。

 この作品も、そのひとつだ。

 高橋洋子は当時のぼくにとっては憧れとはいわないまでも、

 青春のおねーさんって感じで括られる。

 そんな彼女のデビュー作で、

 これがまた70年代の雰囲気を濃厚に伝えてくれてるんだ。

 あの時代、ひとり旅で、しかも無銭旅行に近い旅は、人生の通過儀礼で、

 ひとり旅もできないやつに青春は語れないみたいな青臭さがあり、

 ぼくもそういう旅に憧れた。

 けど、なかなか高橋洋子みたいな旅はできないもので、

 ヒッチハイクしたトラックの運転手にも「臭い!」と顔をそむけられるなんて、

 もう、21世紀の女の子には信じられないような話だろう。

 けど、70年代はそれでよかったんだよね。

 おとなの世界に憧れ、ちょっと背伸びをして、それで壁にぶちあたって砕ける。

 でも、砕けながらも、ほんのすこし何かがわかったような気になるっていう、

 なんともいじましくも、しみったれた世界だったけど、なんともいえない充足感はあった。

 この映画も、そんな感じで筋が運ばれてくけど、ちょいと重い。

 母親は浮気をしてる。

 もしくは、別居あるいは離婚したかして、ともかく、母子ふたり暮らしだ。

 で、毎日のように男のところへ通い、セックスをしてる。

 そういう母親を高橋洋子はよく見ているし、だからといって文句はいわない。

 母親も女であることに変わりはなく、自分もやがて母親のような女になる。

 そんな冷めた目で見てる。

 60年代から70年代にかけての若者たちは、多かれ少なかれそんな感じだった。

 片足、おとなの世界に足を突っ込んで、ものがわかった気でいた。

 そこで、自分なりに世間を見てみようと、ひとり旅に出る。

 自然がちょっとずつ失われてゆく都会に背をむけて、

 四国のお遍路さんの歩いている道を自分も歩いてみようってわけだけど、

 ここで出会うのが三國連太郎と高橋悦史、つまり、父親に近い年齢のオヤジだ。

 ということは、つまり、高橋洋子はファザーコンプレックスなのかもしれないね。

 ただ、三國連太郎とはセックスしないけど、横山リエとはレズビアンを経験する。

 18歳の小娘にしてはハードな展開だ。

 それどころか、

 栄養失調でぶっ倒れたときに助けてくれた高橋悦史のあばら家に転がり込み、

 まるで父と子のような生活が始まるんだけど、しばらくはセックスはしない。

 やがて、秋吉久美子と知り合い、彼女がいきなり自殺することで佳境に至る。

 高橋悦史とのセックスがもしかしたら初体験かもしれないけど、よくわからない。

 ちょっと驚くのは、ここで漁民の若い奥さんとして定住しちゃうことだけど、

 こればかりは、この時代の雰囲気にそぐわないような気もするんだわ、ちょっぴり。

 時代といえば、

 佳代(加代だっけ?)という名前もこの時代で、秋吉久美子の役どころなんだけど、

 これがいわゆる文学少女で、ほんっとにいきなり入水しちゃうんだ。

 田舎にいなくちゃいけない少女の鬱屈したやるせなさが原因なのかどうかは、

 わからない。

 吉田拓郎じゃないけど、

 なんもかもわからないまま生きているってのが、この時代なんだよね。

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西陣心中

2013年02月18日 00時26分38秒 | 邦画1971~1980年

 ◇西陣心中(1977年 ATG 110分)

 監督 高林陽一

 出演 島村佳江、土屋嘉男、楠侑子、白川和子、中尾彬、成田三樹夫

 

 ◇京都には魔が棲むのね

 西陣を舞台にした純愛物かとおもいきや、心中しても生き残ってしまう宿命を背負ったかのような魔に魅入られた女に翻弄されてゆく男たちの末路を丹念に追っていくとは思わなんだ。ちょっと予想してた物語とはちがうけど、なんだろう、このまた観たいとおもわせる妖しさは。

 島村佳江の据わった目は怖いな。

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愛のメモリー

2013年02月04日 15時21分56秒 | 邦画1971~1980年

 ◎愛のメモリー(1976年 アメリカ 98分)

 原題 Obsession

 監督 ブライアン・デ・パルマ

 出演 クリフ・ロバートソン、ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド、ジョン・リスゴー

 

 ◎デパルマ初のワイドスクリーン

 誘拐犯の登場と死体の行方、さらにはリスゴウとの妙に怪訝な友情が垣間見られる内に、佳境まで見通せてしまえるのは仕方ない。

 しかし、そんなことは実はどうでもよくって、デ・パルマの映像への愛情を見つめなければどうにもならない。ヒッチコックの『めまい』の物真似だとかヌーヴェルバーグへのオマージュだとかなんだとかいわれるけど、批評家じゃないぼくにはそんなこともどうでもいい。要は、どれだけかっこいいワンカットを撮れるかってことで、ヒッチコックに似た映像と『めまい』と同じくバーナード・ハーマンを起用してるからって、批評がそちらに傾いてしまうのは、なんか嫌だな。

 ということで、船から岸へ身代金のトランクを放り投げるカットと円形移動は正にデパルマ。好いね。

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遙かなる山の呼び声

2012年11月12日 13時17分14秒 | 邦画1971~1980年

 ◇遙かなる山の呼び声(1980年 日本 124分)

 監督 山田洋次

 出演 高倉健、倍賞千恵子、渥美清、ハナ肇、武田鉄矢、吉岡秀隆、鈴木瑞穂、下川辰平

 

 ◇北海道中標津

 ラストの電車の中の場面がやりたかったんだなというのはわかる。

 でも、それはそれで充分に感動的な場面が作られていて、いろんな疑問なんかすべて吹き飛ばしちゃうようなちからを持っている場面になってるんだけれども、建さんの過去っていうか、ここにいたるまでの半生をもうすこし深く描いた方がいいような気がしないでもない。その事件によっては健さんの逃げている意味合いが違ってくるからだ。結局、逮捕されるのが嫌で母子家庭だったら潜伏しやすいとおもったんじゃね~の?とかいわれないような設定にしてほしいじゃんね。

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