◇禁断の惑星
懐かしい。昔、テレビで何度も観た。イドの怪物のことがわかるようなわからないような感覚だった。イディアとエゴイズムから来てるんだろうけど。でものんびりした映画だったんだね。『宇宙家族ロビンソン』や『宇宙大作戦』の原形なんだね。そういえばこのロビーのおもちゃ持ってたな~。アン・フランスシス、お人形さんみたいに可愛らしいけど、妙にセクシーだな。超ミニの衣装もすべての場面でちがうし、アンダースコートは絶対見えないように撮影されてるのは当時の自主規制の徹底ぶりだね。
◇禁断の惑星
懐かしい。昔、テレビで何度も観た。イドの怪物のことがわかるようなわからないような感覚だった。イディアとエゴイズムから来てるんだろうけど。でものんびりした映画だったんだね。『宇宙家族ロビンソン』や『宇宙大作戦』の原形なんだね。そういえばこのロビーのおもちゃ持ってたな~。アン・フランスシス、お人形さんみたいに可愛らしいけど、妙にセクシーだな。超ミニの衣装もすべての場面でちがうし、アンダースコートは絶対見えないように撮影されてるのは当時の自主規制の徹底ぶりだね。
◇慕情
あらためて見直すと、香港がものすごく落ちついた町に見える。雑然とはしてるけど猥雑さはまるでなくて、なんだか異国情緒に溢れた鯉艸郷みたいな雰囲気で描写されてる。ま、とはいえ、ひとびとは下世話で詮索好きで噂話は悪口ばかりってのは、ジェニファー・ジョーンズの台詞だけどね。
朝鮮戦争のきな臭さがだんだんと漂ってくると、ああこの時代なんだよな~って気がする。で、その戦場特派員のウィリアム・ホールデンなんだけど、どうもこつい。戦場は似合うんだけどな~。
ちなみにずいぶん昔、ピンク映画でこの映画の主題曲を使ってるのがあって、ちょうどぼくはこの作品を初めて観たばかりで、それが松林で幹に寄りかかってたちまんするBGMに流れてきた。
なんちゅうひどいことをするんだとおもったけどもう遅い。それから何十年も『慕情』を観たり主題曲を聴いたりするたびにその悪夢場面がおもいだされる。もちろん今もそうだ。
なんだかね、自業自得ってのはこのことかしら。
◇勝手にしやがれ(1959年 フランス 90分)
仏題/À bout de souffle 英題/Breathless
監督・脚本/ジャン=リュック・ゴダール 音楽/マルシャル・ソラル
出演/ジャン=ポール・ベルモンド ジーン・セバーグ ダニエル・ブーランジェ
◇原案フランソワ・トリュフォー
時代だな~って感じしかおもいうかばない。かつてもてはやされたのはなんとなくわかるし、この映画が封切られたときは衝撃的だったんだといわれても、その時点で観ていないとその凄さは肌で感じられない。となると、そうした背景を頭に描いた上で観なくちゃいけないっていうめんどくささが、常にこの映画にはつきまとう。まあ、それだけ、ぼくのような素人には難しい作品なんだよね。
こんなこといってるのは、デグラス/最低でしょ?
ま、それはさておき、ベルモンドはこのときものすごく新鮮でかっこよく出てきたんだろうなってのはよくわかる。タフなちんぴらっていうか。ショーケンはこの映画を観たんだろうか。雰囲気そのまんまだもんね。
◇アラモ(1960年 アメリカ 162分/202分)
原題/The Alamo
製作・監督・主演/ジョン・ウェイン 音楽/ディミトリ・ティオムキン
出演/リチャード・ウィドマーク ローレンス・ハーヴェイ リンダ・クリスタル
◇1836年、アラモの戦い
テキサス独立のための戦いの物語なんだけど、アメリカ人にとってはなんていうか独立戦争に準ずる戦いみたいなもので、デイビー・クロケット大佐といえば知らない者はいないってくらいなんだろうね、たぶん。
だからなのかな、援軍が待ち伏せされて来られなくなったとき、デイビー・クロケットが砦から去っていこうとする義勇兵に対してこういうんだ。
「May God bless you. 神があなたに恵みを垂れたまわんことを」
そうか、こんなところに『スターウォーズ』の台詞の原形があったのかっておもったわ。
◇甘い生活(1960年 イタリア 174分)
原題/La dolce vita
監督/フェデリコ・フェリーニ 音楽/ニーノ・ロータ
出演/マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、イヴォンヌ・フルノー
◇神は死に、天使は語らず
しょっぱな、屋上に水着でいるお姉ちゃんたちの腋毛に迎えられるキリストの像をヘリコプターで吊るしていくマストロヤンニは、要するに神を否定した存在で、享楽と退廃に身をゆだねるのはつまり地獄をさ迷っていくゲオルク・ファウストなのだっていう意味をもたせてるのかしら。となると、アニタ・エクバーグは女メフィスト・フェレスってことになる。
ま、そんなつまらん感想はさておき、つぎつぎに重ねられてゆく挿話が自己を反省させてゆく種のひとつひとつになってるんだけど、そこまで見つめていかないと自分の愚かしさがわからないのかともおもったりする。友人の家庭の幸せぶりに、愛人はこんな家庭を持てたらいいわねというけれども、それも所詮は束の間の幻影にすぎないという虚無感も漂わせてるのは嫌いじゃない。
いや、実際、海の家みたいなテラスで簾から落ちてくる木洩れ陽のコントラストの美しさだけでなく、すべての画面でくっきりした輪郭と光線と反射が観られ、なんていう見事な絵を撮るんだっておもったりもするけれども、ここでようやく登場してくるのが天使(ギリシア神話のヘレンってことかしら)をおもわせる横顔の綺麗なヴァレリア・チャンゴッティーニだ。
ラスト、まったく語ることのない彼女はまさしく天使が降りてきているわけで、夏休みの間にマストロヤンニに会いに来てくれたわけで、また天上へ帰っちゃうんだね。だから、この世を象徴するような醜悪な汚らしい魚の死骸が浜辺へ打ち上げられたとき、それはまさしくマストロヤンニたちの見立てにもなってるんだけど、それが野次馬たちの見世物にもなっていく過程をじっと見つめる彼女のアップで映画は終わる。
難解だとか意味深だとかっていわれるけど、きわめて単純で、とてもわかりやすい映画だったんじゃないかしら。
まあたしかに、この映画の産み出したのは登場人物の名前パパラッツィオから出た「パパラッチ」っていうゴシップの追っかけ屋の徒名のほかになにがあったんだろうっていうような気にさせなくもないけど、ぼくの受け止め方はかぎりなく単純なんだけどな。
でもそういう、この世界では神はすでに死んじゃったんだけど、まだ救いもあんじゃないのかな、このマストロヤンニだってちょっとは後悔して自己批判もし始めてるみたいだしねっとかいう皮肉と哀しみを描いてるんじゃないかしら?…なんておもうのはぼくの感性が鈍いからなんだろうな。
◇ナイアガラ (1953年 アメリカ 92分)
原題 Niagara
監督 ヘンリー・ハサウェイ
◇モンロー初のテクニカラー作品
その昔、テレビで観たことは観た。ところが今回観るまで知らなかったんだけど、この作品がモンローウォークの始まりなのね。左と右のヒールの高さに差をつけるとお尻がいつもよりも余計にくねくねとするんだそうで、それを実践したんだとか。ふ~んってな話だけど、いやまあ、当時こんなゴージャスな姿態を見せられたんじゃ、その艶めかしさに世界中の男どもはいちころだわね。ていうか、今観ても、モンローは魅惑的だわ。
で、そのモンロー、悪役なんだよね。夫を殺そうとしてる悪女の役で、もう知的なはずなのにどうしても四肢に瞳が吸い込まれる。まあ本人もそれがわかっているからこそのポーズや仕草なんだろうけど、う~ん、この世は不公平に出来てる。
とはいえ、ヘンリー・ハサウェイは西部劇とかの職人監督な感じで、物語は途中で破綻するんだ。だって、夫殺しをしようとしたのに返り討ちにあって愛人が殺され、それにショックを受けたモンローが逃げ出そうとするや、夫に追われてスカーフで絞め殺されるっていう、どうしようもなく下世話な犯罪物語になっちゃってるんだもん。まあ、そんな夫殺し未遂の一幕を、ナイヤガラという世界でも稀な舞台でなんとも大掛かりに見せようとしているのはわかるし、モンローの殺される鐘楼の場面なんか嫌いじゃない。ジョセフ・コットンがボートで滝壺へ向かっていくところだって、まあ当時としては頑張ったスペクタルになってるし。
◇理由なき反抗(Rebel Without a Cause 1955年 アメリカ)
小学校の高学年だったか、おそらく、初めて観た。
もちろん、テレビ放送だ。
でも、そんなに好きにはなれなかった。
だって、ジェームズ・ディーンが不良に見えたんだもん。
ものすごくナイーブな青年だってことはわかったけど、
当時のぼくは悪いことをしそうなやつは好きじゃなかった。
髪の毛をオールバックにしてたり、
Tシャツの上にジャンパーを羽織ってるだけだったり、
Gパンとか履いちゃったり、
煙草まで喫っちゃったりしてるような若い奴が不良でないわけないじゃん。
ま、いまだにTシャツの上に直接ジャンパーを羽織るのは、
襟元に汗がつきそうであんまり好きな恰好じゃないんだけどさ。
だから、中学や高校でジェームズ・ディーンが好きとかいってる女の子も、
ぼくはあんまり口を聞こうとはしなかった。
要するにツッパッテル連中は好きじゃなかったっていうことだ。
車にも興味はなかったし、だから、チキンレースなんて一生しないとおもってたし、
まあ、実際にそんな危なっかしいことはやらずに生きてきちゃったけどね。
ただ、親が子供の気持ちを理解せずにいることや、
子供がほんとは純粋な心を持ってるのに不良扱いされてしまうことの悲しみは、
そんなぼくにもよくわかったし、
廃墟や天文台に女の子とふたりで忍び込んでみたいっていう憧れは持った。
だからか、おとなになってからも廃墟は大好きだし、
ついこの間もプラネタリウムを観に行ったりした。
けど、どういうわけか、
同窓会とかで昔馴染みに会ったりすると、たいがい、こんなふうにいわれる。
「昔、不良だっておもってたんだよ~」
とか、
「おまえが不良じゃなかったら、いったいどいつが不良だってえんだよ」
とか、だ。
まあ、いまだにぼくは普段からGパンに赤いジャンパーとかでいるし、
もうちょっとばかしアヴァンギャルドな恰好もしたりしてるんだけど、
そんなことはともかく、
ぼくは昔から家族や親戚や周りから想い違いされることが多く、
そういうときに、この作品のジェームズ・ディーンみたいに、
周りの連中が純粋な心を理解してくれない悲しみをおぼえるんだ。
てなことは、
この映画が、ロードショーなり名画座なりでともかく掛けられていたとき、
実際に観に行ったことのある人は、みんな、おもったりするんだよ。
たぶんね。
◎太陽がいっぱい(1960年 フランス、イタリア 118分)
原題 Plein Soleil
staff 原作/パトリシア・ハイスミス『才人リプレイ君』
監督/ルネ・クレマン 脚本/ルネ・クレマン ポール・ジェゴフ
撮影/アンリ・ドカエ 美術/ポール・ベルトラン 音楽/ニーノ・ロータ
cast アラン・ドロン マリー・ラフォレ モーリス・ロネ エルヴィール・ポペスコ
カメオ出演 ロミー・シュナイダー ポール・ミュラー
◎漁村モンジベロからナポリへ
まあ『危険がいっぱい』も観たことだし、
ルネ・クレマンとアラン・ドロンとくれば、いっぱいシリーズの1も観ないとね。
たぶん、生まれて初めて観たサスペンスだとおもうんだけど、
たしかなことはわからない。
でも、子供心に、
ラストシーンの余韻たっぷりの怖さと悲しさはよくわかった。
映画は省略と余韻の芸術で、
映像で語っていない部分をどれだけ想像させられるかってところが、
その監督の才能だとおもうんだよね。
でも、この頃の映画を観てると、そんな奥ゆかしさやお洒落さはまるでなく、
なんでもかんでもありったけ見せちゃえっていうより、
小説でいえば、行間を読ませる、ていうところがないんだよな~。
その点、この映画のラストシーンは凄すぎる。
まあ、筋立てについてはいまさら書き留めておく必要もないし、
マリー・ラフォレの美しさについても同様だ。
淀川長治が「これはホモの後追い」だといったそうだけど、
そりゃたしかにアラン・ドロンとモーリス・ロネの関係は、
ホモを疑われても仕方のない意地悪さがあるけど、
それをおもうと、マリー・ラフォレはどういう立場になるんだろう?
たしかに、アラン・ドロンは彼女のことを愛してはいなかったろうし、
彼女を間においた三角関係が生じていたとはおもいにくい。
ただ、貧乏人の若いチンピラが、金持ちのどら息子にこき使われる内に、
お金が欲しいというより、
どら息子の存在そのものに嫉妬し、殺意を抱くというのは、よくわかる。
アラン・ドロンの殺意は、自分のプライドを涙ながらに守ろうとした故のものだ。
奥ゆかしい金持ちは好かれるが、
傲慢で高慢で意地悪な金持ちは憎まれる。
いつの時代も格差社会の悲劇はあるし、そこに殺意は当然生まれる。
一寸の虫にも五分の魂ってのは、
なんだか、この映画にもあてはまりそうな気がするんだよな~。
◇翼よ!あれが巴里の灯だ(1957年 アメリカ 138分)
原題 The Spirit of St. Louis
staff 原作/チャールズ・リンドバーグ『翼よ!あれが巴里の灯だ』
監督/ビリー・ワイルダー
脚本/ビリー・ワイルダー ウェンデル・メイズ 脚色/チャールズ・レデラー
撮影/ロバート・バークス ペヴァレル・マーレイ 空中撮影/トーマス・タットワイラー
音楽/フランツ・ワックスマン 編曲/レオニード・ラーブ
cast ジェームズ・スチュアート マーレイ・ハミルトン パトリシア・スミス マーク・コネリー
◇1927年5月20日5時52分、離陸
そして、33時間と29分30秒後、
リンドバーグを乗せたThe Spirit of St. Louis号は、
5,810kmを飛行して、ニューヨークからパリへの飛行を終えた。
人類初の単独無着陸飛行の成功だったけど、
どうやら「翼よ!~」の台詞はいってなかったらしい。
ま、そんなことはどうでもよく、
当時のニュース画像が挟み込まれてるような気がするけど、
なんともリアルに、ビリー・ワイルダーはこの映画を仕上げてる。
よくいわれるのは、
飛行当時27歳だったリンドバーグを、
撮影当時48歳だったジェームズ・スチュアートが演じたことだ。
でも、そんなことはよくあることで、
映画を観るかぎり、実際の年齢なんてまるで気にならない。
びっくりしたのは、この飛行機、前方の視界がまるでないことだ。
ぼくはほんとに無知なものだから、
この映画を観るまで、まるで知らなかった。
前方の視界をさえぎったのは、
燃料タンクを大きくして、少しでも遠くへ飛べるようにするためで、
そのため、潜望鏡のようなものを装着して飛行したんだけど、
「そんなこと、ほんとにできるの?」
という疑問は当然、わく。
だけど、現実に、
このライアンNYP単葉機The Spirit of St. Louis号は、
スミソニアン航空宇宙博物館に展示されてるらしいから、
そこまで行けば、奇妙な形をした単座の飛行機に出会えるんだろう。
まあ、それはさておき、
ジェームズ・スチュアートのことだ。
彼はもともと飛行機乗りだったようで、爆撃機の操縦士だったらしい。
第二次世界大戦の頃は陸軍の大佐だったというから筋金入りだ。
そんな経歴はともかく、
飛行機乗りに憧れる青年にとって、リンドバーグは英雄以外の何物でもなく、
その役を必死になって獲得しようとしたのは、よくうなずける。
そういうことからいえば、この映画は、
アメリカの良心といわれたジェームズ・スチュアートの
渾身の大作だったってことになるんだろね。
リンドバーグにしても、
スチュアートにしても、
たいした人間だな~と、心から想います。
◎見知らぬ乗客(1951年 アメリカ 101分)
原題 Strangers on a Train
staff 原作/パトリシア・ハイスミス
監督/アルフレッド・ヒッチコック 脚本/ウィットフィールド・クック
脚色/レイモンド・チャンドラー ツェンツィ・オルモンド
撮影/ロバート・バークス 美術/テッド・ハワース
音楽監督/レイ・ハインドーフ 音楽/ディミトリ・ティオムキン
cast ファーリー・グレンジャー ルース・ローマン ロバート・ウォーカー ローラ・エリオット
◎結末は2種類ある
というのも、DVDを観ればわかるんだけど、
この作品にはアメリカ版とイギリス版があって、
話の流れもクライマックスもほぼ同じなんだけど、
最後のオチをつけるかどうかって感じで、
英米の国民性を考慮したのかどうかはわからないけど、
ともかく、
見知らぬ乗客にふたたび声をかけられるかどうかっていうだけの違いだ。
観る人によって好みのわかれるところだろうけど、
そもそも、ヒッチコックはどうしたかったんだろう?
ただ、このあらすじは上手に構成されている。
主人公のテニス選手が交換殺人を持ちかけられるあたりは、
(なんだ、単純な話だな)
とおもってしまいがちなんだけど、
別れたいとおもっていた妻が殺される段になって、
どんどんと恐怖が増してくる。
交換殺人の片方は済んだんだから、おまえも早くやれと、
まったくするつもりもない犯罪に引き込まれそうになるんだから。
そこで交換殺人を持ちかけた相手に殺意が芽生えるのは当然なんだけど、
これはけっこう普遍的な人間関係だ。
仲良くなり、一緒に仕事をしかけ、ふとしたきっかけで仲違し、殺意を持つようになる。
通常、これは男と女の関係でよくある話だけど、この映画は男と男の話だ。
主人公ふたりに、ゲイの気があるんじゃないかとはよくいわれる話だけど、
なるほど、そういうことも考えられるかもね。
ネクタイやライターの扱いを観てると「お、そうかな」とおもえてくる。
してみると、ヒロインはどちらなんだろう?
それはともかく、クライマックスのメリーゴーランドは凄い迫力だ。
スクリーンプロセスも使われてるけど、
遊園地のじーさんがメリーゴーランドをとめるために、
回転する真下を這っていくところは、まじで固唾を飲む。
話の中身にではなく、
「あ~、これ、まじでやってんじゃん。ちょっとでも腰や背中に触れたらまずいで」
という、ヒッチコック組への心配なんだけど、それくらい、まじだった。
昔はCGが使えない分、役者は体を張ってるから、迫力は段違いだ。
あと、
メガネにライターが映るのはちょっと噴き出すけど、
殺人の光景が映り込むのは、この時代の先端だったかもしれないね。
冒頭の鉄道と並んで見事なカットでした。
◎サイコ(1960年 アメリカ 109分)
原題 Psycho
staff 原作/ロバート・ブロック『サイコ』
監督/アルフレッド・ヒッチコック
脚本/ジョセフ・ステファノ 撮影/ジョン・L・ラッセル 音楽/バーナード・ハーマン
美術/ジョセフ・ハーレイ ロバート・クラットワージー ジョージ・ミロ ソウル・バス
cast アンソニー・パーキンス ジャネット・リー ヴェラ・マイルズ ジョン・ギャヴィン
◎剥製は『鳥』
たぶん、中学生のときだったとおもう。
初めて『サイコ』を観た。
話の中身はすぐに忘れてしまったし、よく理解できていなかったかもしれないけど、
どうにもシャワーシーンの恐ろしさが忘れられず、
以来、いまにいたるまで、シャワーのカーテンを閉めるとき、
ふと、この映画をおもいだす。
おもいだすと途端に不安がよぎり、シャワーを浴びてる間中、
カーテンの向こうに誰かいるんじゃないかって気になってる。
トラウマっていうんだろうか。
まったくヒッチコックも恐ろしい場面を考えたもんだ。
大学に入ってから、はじめて『殺しのドレス』を観、
今度はエレベーターまで怖くなったけど、
そのときは『サイコ』の内容はすっかり忘れてて、
実をいえば、ぼくはすっかりブライアン・デ・パルマが御贔屓になってた。
デ・パルマがヒッチコックの崇拝者で、
いたるところにオマージュがあるのはわかってたけど、
どうしてもヒッチコックを現役で観ていなかったぼくは、
デ・パルマ派に属していた。
ところが、かなり年を食ってから、あらためて『サイコ』を見返し、
「すげえ」
いまさらながら、そうおもう始末だった。
今回、映画を見直したのは、ほかでもない。
『ヒッチコック』を観る前の予習のためだ。
にしても、あらためて観ておもうんだけど、
ジャネット・リーが勤めてる不動産会社の金を横領して、
車を買い替えながら逃げてゆく際の緊迫感たるや、尋常じゃないよね。
頭の中がパニックになってるとき、それをさらに、
ほかの登場人物の会話と、通り過ぎる車のヘッドライトで増幅させるところなんざ、
見せられれば「簡単なことじゃん」っておもうけど、
この場面を発想したヒッチコックの才能たるや、余人の追随はおよばない。
殺されたジャネット・リーが浴室のタイルを舐めるように倒れている眼のアップから、
移動とクレーンを駆使して、となりの部屋のベッドの脇の小テーブルまで続く、
きわめて長く流麗なワンカットは、誰も考え出したことのないものだったろう。
車を沼に沈める際、途中で水圧に邪魔されたものか、一瞬、止まったとき、
焦り切ったアンソニー・パーキンスのモンタージュが挟み込まれる上手さもまた、
ヒッチコックがいかに登場人物の焦慮と緊張を考え抜いていたかよくわかる。
そんなひとつひとつのカットについて書いていたらキリがない。
ま、それより注目したいのは、ヴェラ・マイルズの上品さだ。
ヒッチコック・ブロンドは誰も美しいけど、
なによりの条件は品の良さにある。
ジャネット・リーとヴェラ・マイルズを姉妹として並べたとき、
どちらが好みだったかは、一目瞭然じゃないかしら、たぶん。
☆去年マリエンバートで(1960年 フランス、イタリア 94分)
原題 L'Année dernière à Marienbad
監督 アラン・レネ
出演 デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタッツィ、サッシャ・ピトエフ
☆過去と幻影の相克
封切られた当時、もちろん、各映画祭で上映されたときも、さらに僕たちが学生の頃にリバイバルされた時代も含めて、この作品はあまりにも難解だといわれた。かくゆう僕もそうだった。まるでわからない。僕らは『プロビデンス』が封切られたとき現役の学生だったんだけど、いちばん感受性が豊かな時代であるにもかかわらず、匙を投げた。また、それがかっこいいと勘違いしてた。いらぬ解釈はかっこわるかった。
けれど、あえていうなら、去年と現在と幻影とが独白の中で一体となる為に理解し難いようにおもえるものの、客観的に眺めれば分離した個別の時の流れなのに同一の情景の中に入っている物が見えてくるし、紳士や淑女たちが塑造化してしまう理由もまた察せられる。そうおもうのだな。
☆わが青春のマリアンヌ(1955年 フランス 105分)
原題/Marianne de ma Jeunesse
監督・脚色/ジュリアン・デュヴィヴィエ 音楽/ジャック・イベール
出演/マリアンヌ・ホルト イサベル・ピア ピエール・ヴァネック フリードリッヒ・ドミン
☆イリゲンシュタットの古城
この物語が幻想譚の原点なのは論を待たない。
17歳の時、その幻想的な展開と映像に衝撃を受けた。もちろん、今観ても見事だ。かといってここで今更、マリアンヌとの美しくも儚い幻の恋物語を記したところで意味はないし、労力の無駄だ。
ただ、この映画をはじめて観たとき、ぼくは黒服の男たちは死神だとおもった。ひと目見て、そうおもった。
なんでなのかはわからない。けど、霧に包まれた湖に浮かぶ古城そのものが黄泉の国のようにおもえたし、そこにいるものは人ならぬものにちがいないともおもった。おそらくはそれだけデュヴィヴィエの演出が人並み外れていたってことなんだろう。
いやほんと、見事な映画だとおもうわ。
◎十二人の怒れる男(1957年 アメリカ 96分)
原題/12 Angry Men
監督/シドニー・ルメット 原作・脚本/レジナルド・ローズ
製作/ヘンリー・フォンダ、レジナルド・ローズ 撮影/ボリス・カウフマン
美術/ロバート・マーケル 音楽/ケニョン・ホプキンス
出演/ヘンリー・フォンダ エド・ベグリー ジャック・ウォーデン マーティン・バルサム
◎リメイクとは知らなかった
もともとはテレビ映画だったらしい。
へ~って話なんだけど、びっくりすることには生放送だったって話だ。
で、映画版が作られて、この作品ができたんだけど、実はおんなじ脚本で、もう一本ある。ウィリアム・フリードキンの演出で、ジャック・レモンとジョージ・C・スコットが出演した。1997年の35ミリTV版なんだけど、こちらも意外におもしろい。
ただ、ちょっとおもったのは『12人の怒れる男』とはまるで違ってて、この1957年版と1997年版の2本は、2007年版ほど登場人物の人生を掘り下げてなかった。
陪審員裁判の過程だけを、たったひとつの舞台で延々と見せてしまうには、たしかに人生を掘り下げるのは難しいかもしれないんだけど、どちらがいいのかはわからない。
◎裏窓(1954年 アメリカ 112分)
原題/Rear Window
監督/アルフレッド・ヒッチコック 音楽/フランツ・ワッツマン
出演/ジェイムズ・ステュアート グレース・ケリー レイモンド・バー
◎車椅子に乗った目撃者
♪モナリザの流れる庭に殺人なんて、なんてまあ、お洒落だこと。
ま、愛しのリサを讃える歌は最後に流れるんだけど、前奏は住人の聞いているのは♪モナリザだ。
心憎い演出で、こういうのがヒッチコックなんだろな。
というより、もちろん、それもそうだし、庭に死体というトムハンクスも好きな設定や、覗かれる踊り子というデパルマも好きな設定とか、後世の物語に与えた影響は大なるものがあるんだよね。
とはいえ、あらためて観直すと、たしかに、なにもかもが古色蒼然とした観はある。でも、それは仕方のないことだし、他人の生活を覗いてみたいという衝動は、この先もずっと人間の心の暗黒面として存在するだろうし、ことにそれが男女の奇々怪々にして淫靡なものであればあるほど、人は興味をそそられる。
ヒッチコックの凄いところは、そういう人間の生まれ持った業を突きつけてくるところなんだよな~。