☆この世界に残されて(Akik maradtak)
なんという節度と情欲と理性と情愛の混雑した物語だろう。
どうして、この物語を、ナチスによる絶滅政策から生き残ったカーロイ・ハイデュクとアビゲール・セーケの恋愛映画だと観る人間が少ないのかがわからない。
このふたりは、たしかに孤独だ。そりゃあ、妻もふたりの坊やも殺されて42歳になっても心の傷が癒えない産婦人科医だし、家族どころか妹の死までまのあたりにして戦後に孤児院からひきとってくれた叔母とも上手くいかない16歳の少女とは、疑似家族になるしかないのかもしれないけど、でも、アビゲール・セーケは初潮を迎える前夜にカーロイ・ハイデュクにひと目惚れして、彼がずっと独身でいることを望み、年老いてからは面倒を見るともいいきるくらい好きで仕方なくなってるし、その情熱にほだされて抱きしめたいとおもいながらも理性と節度を鎧にしてるカーロイ・ハイデュクがいつ心を開いて、もうあとさき考えずに国境を越えていくのかとおもいきや、ハンガリーの置かれている立場にそのまま埋没して、共産党に入党するしかないほど追い詰められ、盗聴され、党のすすめる相手と強制結婚させられるという辛さを受け留めるしかないと判断したんだけど、それはアビゲール・セーケに難がおよばないようにしようとする愛ゆえのことで、でもアビゲール・セーケだってカーロイ・ハイデュクのアルバムを盗み見てしまったことであらためて家族がいたことを知り、その家族をいまだに愛していることも実感し、それで涙しながらもやっぱり好きだ~っておもい、ぎりぎりのところで同級生が亡命をかけて告白してくるんだけど、でも断わったはずが、ちょうど、強制結婚の話がもたされててどうしようもなくなってるカーロイ・ハイデュクのために自分は同級生との結婚を決めるっていう、そういうふたりの純愛を観ないとあかんのじゃないか?
いや、ほんと、まじ、スターリンがもう数年前に死んでたら、このふたりはまったく別な人生を歩んだはずだって、バルナバーシュ・トートはものすごくはっきり演出してるんじゃん。