Creator's Blog,record of the Designer's thinking

毎月、おおよそドローイング&小説(上旬)、フィールド映像(中旬)、エッセイ(下旬)の3部構成で描き、撮り、書いてます。

PEN LIFE365. 非論理的な話

2012年06月01日 | field work
 関西は、この夏の電力不足が大いに懸念されている。それではあかんというので、原発を再稼働させたいとする議論が高まっている。原発はないのにこしたことはないが、既に原発依存体質から抜け出すには、10年単位というぐらいにしばらく時間のかかる話である。原発が動かないと、深夜の原発余剰電力を利用している水力発電も行えないというのが現実だ。
 しかし、政府もマスメディアも大衆も、論理のすり替えをしていることに気がつかないというのは、なんとも非論理的な話である。
 冷静に考えていただきたい。東北大震災の津波によって原発を停止させる機能が失われたのことが今回の原発事故の最大の直接原因なのであって、原発自体がある日突然漏れたというわけではない。従って原発監視の議論をしていても筋違いの議論だ。
 要は、津波がきたときに原発を停止できるかといった施設の配置の問題なのである。だから対策は緊急停止機能を敷地の高台に移転させたり、防波堤を設けるなどの建設計画を行うのか、行わなくてよいのかが議論の焦点だろう。従って監視機能の議論ではなく、自然に対する対応が本来の議論の焦点なのである。もちろん後者の方がコストはかかる話である。
 だから政府が行っている監視機能だけ強化してもなんら解決にはならない。危なくなったらどうするのか、その具体的方法は逃げるしかないというなんともお寒い話にしかならない。だから原発をすべて停めたという実に非科学的な話である。
 科学が相手なのだから、政府もマスメディアも大衆も、怖いと行った気分ではなく、科学的かつ論理的な判断が、必要なのである。科学には、科学の知見をもってしか解決できないというのが現代の私達が生きている環境なのだ。
 それにしても、世の中全体でこうした議論のすり替えを平然としていることに、私は愕然とせざるを得ない。昔もこういう議論のすり替えが行われていた。あの第二次世界大戦の頃である。それを思うと、日本人は議論のすり替えが得意で、非科学的な気分で動く人種なのだと思わざるを得ない。
 そう考えていたら、同じようなことを考えている人がいた。鈴木博毅:「超」入門失敗の本質、ダイヤモンド社、である。日本人の視点は、第二次世界大戦と現代の日本企業の閉塞感と同じだということを指摘しているのだ。今もiPhonやiPadをはじめコンピュータの世界でアメリカに完全に負けている日本の姿がある。それは何故かということが書かれてある。

鞆の浦,2012年5月18日
OLYMPUS PEN E-PM1,M ZUIKO DIGITAL12mm/f2.0
ISO200,露出補正-1/3,f4,1/250,iFinish
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