高さ2cmにも満たないクリスマスワーム。和名イバラカンザシ、ゴカイ類の動物とWikには記載されている。イシサンゴの穴に生息し、震動や水の流れの変化に敏感で瞬時に傘を折りたたんで小さな穴に引っ込んでしまう。そのメカニズムをデザインに使いたいと思うのだが。
撮影するときはレンズが頭についているニコンW300を逆さまに構え、マクロモードでストロボを発光させ穴に引っ込む直前に撮影している。だが引っ込まないときもあるので光の変化には鈍いようだ。もう少し絞り込んで欲しいがオート撮影ではこれが限度。
さて5月4日のブログで書いた一説を再掲します。
「デッサンを踏まえて描かれた絵と、そうでない絵とには違いがある。前者は、みている側が安心してみていられるし、後者だと不安やら不協和音を感じてしまう。人間の眼や意識は、それらの違いを暗黙のうちに見分けている。たとえ本人がそうした見分け方の違いに気づいていようとなかろうとである。」
これについて補足しておきます。
例えば、窓台の上に置かれた花瓶を一つ描こうとしたときを想定してください。そのときあなたは最初に何を考えますか。花瓶の形でしょうか、陶器やガラスといった材質でしょう、それとも花がないから生けようとする要素の追加でしょうか、あるいは背後の景色でしょうか。そのどれもが描く枚数を重ねさえすれれば誰でも描けますので優先度は低いです。
最も優先度が高いのは、窓台という水平の平面の面に花瓶が垂直に置かれ安定しているという事実であり認識です。これが描けないと、その先いくら技巧をこらしても安定した花瓶を描くことはできません。建築構造力学の世界でいえば安定構造物になります。人間の眼は、最初にそれを意識しようとしまいと見分けています。ついで花瓶の重さであり、いい換えれば質量を持った物体が3次元の空間の中に置かれているとする事実です。だからパースペクティブという概念が発生してきます。つまり今のデッサンの最初の認識は科学です。
現代社会は、アプリが進化しているので、デッサン(建築のドローイングも含めて)なんか勉強しなくてもイラストぐらいは描けるし、実際描いている人も多じゃないか、とする反論があるかもしれません。
そうでしょうか、手で描こうとコンピュータで描こうと方法は問わず、デッサンを勉強してきてた人達と、これをしてこなかった人達の能力差は明白です。
だからデッサンをしてこなかった人達のイラストは、やはり長く見ていると不協和音や違和感を感じますし、意図的に行うことを別にして3次元の空間の中にあるはずの形態が正しく描かれていなかったり、デフォルメの意図を間違えていたり、あるいは何回も発表されると技法がワンパターンだと感じてしまい一つの表現方法から抜け出せなくなります。イラストの癖で、ある種の表現方法に効果があることがわかると、人間はそこにしがみつくわけですね。デッサンをしてこなかった人たち固有の現象といえます。
イラストを描く方法が手書きからコンピュータに変わっても、個人の能力の有無には変わりがありません。そんな思いつきだけで描かれたイラストでWEBの世界は氾濫しています。だから私はデッサンをちゃんと勉強して正しく3次元の形態が捉えられる勉強をしましょうといいたい。抽象化したりデフォメル化するのは勉強してからでも十分可能です。
つまりアプリの進化=個人の能力の進化ではない、というのが変わらないデザインの原則です。そうした認識があって勉強して個人のオリジナリティーが形成されてくるわけです。
さて横並びの人並み志向のライフスタイルや平均化の発想は廃棄して、ちゃんと勉強してオリジナリティのあるクリエイションをしたいですね。人間とは、社会が評価しようとしまいとに関わらず常に能力を持った実力者でありたいと思いますし、その方が格好がよい(笑)。それが今のライフスタイル・ポリシーでしょう。そんなことを私は、もう35年前の地域づくりの報告書で書いていました。
沖縄県慶良間諸島、2019年4月22〜23日
Nikon CoolpixW300
ISO125,焦点距離11mm,露出補正±0,f/4.4,1/160
ISO125,焦点距離9.2mm,露出補正±0,f/4.3,1/160
ISO125,焦点距離12mm,露出補正±0,f/4.5,1/125
ISO125,焦点距離14.1mm,露出補正±0,f/4.6,1/200
ISO125,焦点距離14.1mm,露出補正±0,f/4.6,1/160