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20XX-8-6(金) 晴れ 37.1℃
猛暑の墓参り、ロシアの機雷大爆発、夏の蝶.....
朝から猛烈に暑い日である。まさに記録的な猛暑である。この日、昨年亡くなった父の墓参りにいった。
これまで何十年もほとんど墓参りというものとは無縁の生活で、毎年お盆の頃は丁度最盛期の蝶ベニヒカゲ調査に没頭していることが多かった。さすがに自分の父親が亡くなり、墓も近くにあるので急に墓参りが身近なものになった。
北見市公園町の実家を朝9時出発。キキョウがきれいに咲いていた。
ルクシトンネルを越え芭露(ばろう)にでて、五鹿山(ごかざん)の見えるあたりで右折、湧別の墓地まで一時間ほどのドライブであった。
良く晴れて、ぎらぎら強烈な日射しに車を降りると、めまいと息苦しさを感じた。
気温は37℃を越えており、先発していた叔父が墓掃除も終えていたので熱中症を恐れ、墓参りはすぐに終了となった。
暑いよお。
「千の風になって」という曲が大流行したが、最初のうちは私も父を亡くして、心にしみいる癒し系の歌と思った。
一方、まじめに考えれば、死んだ人の魂が風になってその辺にいて自分たちをいつも見守っていてくれるというのは一体どういうことなのだろう。
時にはあまり見ていてほしくないこともあり、そんな時はちょっとうっとおしい。
また風になってさまよう魂は、いまだ成仏できずにまだその辺にいるということなのだろうか。
あまり深く考えると、いろいろつじつまが合わなくなってしまうのでこの辺で止めておきましょう。
墓はオホーツクの海に近く、その辺の海産物屋をまわって、旬の魚介類を買って、今夜はみんなで酒盛りをしようということになった。
急に私たち兄弟と父母祖父母がはるか昔に一緒に暮らしていた湧別町の家のあたりを見たくなり、そこに立ち寄ってみた。
家は無くなっていたが色々思い出の建物は残っており、ミヤマカラスアゲハ夏型がオニユリの花などに吸蜜に訪れていた。
祖母と波打ち際でイサダすくいをしたり、貝殻など拾って遊んだ懐かしい湧別の浜にもいってみた。
昔、このあたりで漂着したロシア海軍の機雷が大爆発。
この浜には昔、旧ロシア海軍の機雷が漂着し、爆破作業見学に集められた住民の近くで大爆発して多数が死傷する大惨事となった事件があった。
そういえば、このとき亡くなった叔父の一人も今日のお墓に入っている。
叔父の死体はきれいで一見、傷が無く、よく見ると小破片が環椎を破壊して頚部に入り脊髄を損傷したのが死因とのことであった。
当時、となり町の上湧別厚生病院の若い看護婦であった母は血まみれのちぎれた手足や肉片が飛び散る阿鼻叫喚の修羅場で死傷者の介護をしたという。
この時、父との接点があったらしい。その後、第二次大戦を航空兵として戦い抜いて奇跡的に生還した父は、帰りを待っていたその看護婦と結婚し、私たちが生まれたのであった。
機雷事故があったころの、結婚前和服姿の母。 現在89才でとても元気。
湧別町の私たちの家があったあたりをうろうろしていたら、手押し車を押しながら高齢のおばあさんがやってきたので昔のことを尋ねてみた。
なんとこの方は機雷事故で亡くなった叔父の同級生であった。
私の母と懐かしそうに昔話をしていた。タイムマシーンがものすごい勢いで逆方向に回っているのを感じた。
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20XX-8-6(金) 晴れ 37.1℃
猛暑の墓参り、ロシアの機雷大爆発、夏の蝶.....
朝から猛烈に暑い日である。まさに記録的な猛暑である。この日、昨年亡くなった父の墓参りにいった。
これまで何十年もほとんど墓参りというものとは無縁の生活で、毎年お盆の頃は丁度最盛期の蝶ベニヒカゲ調査に没頭していることが多かった。さすがに自分の父親が亡くなり、墓も近くにあるので急に墓参りが身近なものになった。
北見市公園町の実家を朝9時出発。キキョウがきれいに咲いていた。
ルクシトンネルを越え芭露(ばろう)にでて、五鹿山(ごかざん)の見えるあたりで右折、湧別の墓地まで一時間ほどのドライブであった。
良く晴れて、ぎらぎら強烈な日射しに車を降りると、めまいと息苦しさを感じた。
気温は37℃を越えており、先発していた叔父が墓掃除も終えていたので熱中症を恐れ、墓参りはすぐに終了となった。
暑いよお。
「千の風になって」という曲が大流行したが、最初のうちは私も父を亡くして、心にしみいる癒し系の歌と思った。
一方、まじめに考えれば、死んだ人の魂が風になってその辺にいて自分たちをいつも見守っていてくれるというのは一体どういうことなのだろう。
時にはあまり見ていてほしくないこともあり、そんな時はちょっとうっとおしい。
また風になってさまよう魂は、いまだ成仏できずにまだその辺にいるということなのだろうか。
あまり深く考えると、いろいろつじつまが合わなくなってしまうのでこの辺で止めておきましょう。
墓はオホーツクの海に近く、その辺の海産物屋をまわって、旬の魚介類を買って、今夜はみんなで酒盛りをしようということになった。
急に私たち兄弟と父母祖父母がはるか昔に一緒に暮らしていた湧別町の家のあたりを見たくなり、そこに立ち寄ってみた。
家は無くなっていたが色々思い出の建物は残っており、ミヤマカラスアゲハ夏型がオニユリの花などに吸蜜に訪れていた。
祖母と波打ち際でイサダすくいをしたり、貝殻など拾って遊んだ懐かしい湧別の浜にもいってみた。
昔、このあたりで漂着したロシア海軍の機雷が大爆発。
この浜には昔、旧ロシア海軍の機雷が漂着し、爆破作業見学に集められた住民の近くで大爆発して多数が死傷する大惨事となった事件があった。
そういえば、このとき亡くなった叔父の一人も今日のお墓に入っている。
叔父の死体はきれいで一見、傷が無く、よく見ると小破片が環椎を破壊して頚部に入り脊髄を損傷したのが死因とのことであった。
当時、となり町の上湧別厚生病院の若い看護婦であった母は血まみれのちぎれた手足や肉片が飛び散る阿鼻叫喚の修羅場で死傷者の介護をしたという。
この時、父との接点があったらしい。その後、第二次大戦を航空兵として戦い抜いて奇跡的に生還した父は、帰りを待っていたその看護婦と結婚し、私たちが生まれたのであった。
機雷事故があったころの、結婚前和服姿の母。 現在89才でとても元気。
湧別町の私たちの家があったあたりをうろうろしていたら、手押し車を押しながら高齢のおばあさんがやってきたので昔のことを尋ねてみた。
なんとこの方は機雷事故で亡くなった叔父の同級生であった。
私の母と懐かしそうに昔話をしていた。タイムマシーンがものすごい勢いで逆方向に回っているのを感じた。
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